『パルタイ』『聖少女』『夢の浮橋』倉橋由美子(1935~2005)

連載・文学でたどる日本の近現代(35)
在米文芸評論家 伊藤武司

倉橋由美子

処女作が女流文学賞
 倉橋由美子は昭和10年、高知県土佐山田町(現・香美市)で歯科医の長女として出生。同年、愛媛県で大江健三郎が生まれている。明治大学でフランス文学を専攻し、サルトル、カミュ、カフカ、川端康成から影響を受け、その作品は日本文壇に新風を吹きこんだ。
 倉橋の小説は、いわゆる反リアリズムと非私小説的なスタイルで、同世代の大江とは色々な面で比較されてきた。初期の作品は性と政治を観念の象徴とし、寓意や暗喩で味つけしたアイロニカルで戯画的な創作が基調。かつ形容詞・副詞・修飾語や隠語を幅ひろく多用し、やわらかい柔軟な文の流れと、明晰で哲学的、形而上的な筆づかいが緩急自在に顕われるのが特徴である。
 創作活動は45年間にわたるが、病弱ゆえ長期連載や長篇は難しく、短編で才能を開花させた。代表作は在学中に発表した『パルタイ』で、芥川賞は逸したが、翌年の女流文学賞を獲得した。代表作は『暗い旅』『婚約』『人間のない神』『聖少女』『妖女のように』『反悲劇』『スミヤキストQの冒険』『ヴァージニア』『マゾヒストM氏の肖像』『夢の浮橋』『大人のための残酷童話』『シュンポシオン』『ポポイ』『アマノン国往還記』など多数。
 パルタイ(Partei)はドイツ語で「党」を意味し、明言されてはいないが日本共産党を意味していた。主人公の「わたし」は、セツルメントに加わり、寮生活をしながら労働組合を調査している女子大生。「パルタイ員」の恋人の学生から再三入党を勧められ「経歴書」を申請するが、そうした行為に恥ずかしさや不安、規律に隷属する息苦しさを覚えるのであった。党の方針や規律からずれた言動の「なかま」たちの人間関係にも失望し、「同志」と呼ばれることへの「居心地のわるい」感情も混じりこんできた。
 彼女が入党しようとした理由は、「組織が私の自由を拘束することによってわたしをかつてないほど自由にしていること」であったのに、恋人からの執拗な「説得」と「革命の必然性」への無関心がなじられると怒りを爆発させた。結局、届いた封書から「赤いパルタイ員証」を取り出し「掟」と「秘儀」で密封された「宗教団体」さながらの革命党を「脱党」するというシニカルなエンディングである。
 評論家・磯田光一は「解説」で、本作が共産党を批判をしているというよりも、「作者の関心はどこまでも宗教的な秘密集団としての『党』に向けられている」と読み解く。倉橋は「この小説は荒唐無稽なカフカ的世界のミニアチュアであって」また、「80パーセント以上『異邦人』の…文体」の模倣と断わり書きしている。
 創作の主意や技法について倉橋は『人間のない神』の「あとがき」に、「私は、小説とは読者のなかにひとつの夢を投影するための映写装置であろうと思います」と述べている。つまり従来の物書きの定型や時流を超えた方法による、観念の極限の体験を蓄積した観念小説。内面で蘇生する観念の束を掘りだすことを主目的としているので、伝統的小説形式に反抗し、ひいては破壊する試みともなったという。
 さらに「わたくしの小説がことさら奇妙な外見をそなへてゐるのは、世界をありのまま書きうつさうといふレアリスムの錯誤から小説を解放して、そのような不幸な習慣からも逃れたかったからでした」と。そして物語内に「人物を動かして」「彼または彼女に行動させてみるのが小説である」と独自の定義をうちだす。
 著者は、創作のネタバレや工夫を自由に語り、「自分と他人とが関係して起ったことをそのまま小説に書いてはならない」という「自主規制」を課している。こうして「誰からも支配されない自由な意識体である」己を基点に、「一篇一篇が感じの違ったものでなければならない」と、大胆にして潔癖かつ奇抜な着想による創作に挑戦したのである。


愛と性の不毛性
 30歳で書いた『聖少女』は、人間の運命的出会いや男女の愛と性の不毛性・焦燥・悦びなどを大胆に模写している。主要な登場人物はアメリカ留学のビザを待っている学生運動家「ぼく・K」、「パパ・おじさま」、「みさを・M」、女子大生「あたし(未紀)」など。「分厚いノート」は物語の重要なキーで、自動車事故で記憶障害になったミキがつけてきた日記である。主人公は「ミキ」と「ぼく」で二人は恋人関係に近い。
 ぼくは『パルタイ』と同じ安保時代を下敷きに、学生運動くずれの破廉恥な仲間たちと行動をともにしている。シルエットのように妖しく見え隠れする「妖女」にも「聖女」にも変われるむじゃきな女の子がミキ。
 第Ⅱ章は、登場人物たちの知的で高尚な議論の後に、下卑た会話や近親相姦の無節操な行為が妙に実感のある熱っぽさで語られる。二人の仲以外に、父と娘、姉と弟との情痴、愛と性の相貌などを運命的な絆としてきまじめに論じている。
 ストーリーは不謹慎、不道徳、グロテスク、暴力性のオンパレード。難しい哲学用語や物理の公式、文化、芸術、政治、文学、宗教の事項が並ぶが、ゲーム感覚と風刺・揶揄的なタッチが幸いして息苦しさの減った作品になっている。
 時代的に時期尚早ともいえる人間の深層部、闇の世界をえぐりとった小説を文壇史からひろうと、一番手が安部公房で、大江・倉橋から村上春樹・村上龍へつづきさらに多和田葉子といった図式になろうか。結末が読者を絶句させることは必至で、なんと日記はすべてが小説であったのだ。ミキの「ためだけに書かれた呪文」であり、これに別の話が重なるという多重構造が明らかにされる。


孤高で気丈
 倉橋の作風は後半期に様変わりする。旅行記・準小説の『ヴァージニア』は、フルブライトの留学先で、別居中の二児の子供を育てながら学んでいる白人女性の奔放な人生を描いている。
 一方、早い段階でSFに取り組み、短編『合成美女』は濃密なデストピア作品。『スミヤキストQの冒険』は、衒学的な文をからませ『魔の山』をモデルとした反世界の冒険譚。革命政党スミヤキ党の工作員Qは、ある島に忍びこみ民衆を扇動しながら権力者を殲滅する。安保反対のデモで騒然とした世相にひっかけた、珍奇な人々や昆虫を戯画的・風刺的に表現し、革命思想や宗教、差別問題、食人の風習、ギャンブル、文学、セックスなどのテーマを集積し当時の話題作となった。倉橋流のシュールさがあふれ、奇天烈きわまりないこの観念小説を、奥野健男は「自己破滅を辞さない、まさに綱渡りの冒険にほかならなかった」とし、「その実験に成功している」とコメントした。
 1986年の『アマノン国往還記』は、男女機会均等法の施行を受け書き上げた寓話で、「究極の女性化社会」の首都「トキオ」に「モノカミ教」の布教のため忍びこんだ男性宣教師Pがしでかす性と宗教と革命の奮闘ぶりは、笑いと風刺のエスプリ感にあふれている。35年前の本作はまるで現代を見透かしたようで、倉橋の鋭利な分別力を感じる。
 1971年の『夢の浮橋』は戦後世代ならではの力作で、政治的風刺や俗物性や皮肉をこめたユーモアがある。主人公の牧田桂子は、ヘルメットをかぶった全共闘と体育会の学生たちがにらみあい、機動隊の導入がまぢかな紛争真っ最中のキャンパスで学んでいる。しかし、学内紛争に関心はあってものめり込みはしない。ボーイフレンドの宮沢耕一はサークルの先輩で大阪の会社に勤務し、桂子の父母と耕一の父・継母・実母らが登場する。
 古都を舞台にしたストーリーは、源氏物語の帖を連想させ「嵯峨野」「雲の峰」「中秋無月」「風花」などの各章に、各々の親たちのオープンな愛のかたちを織り込み、桂子は、夢の中に浮かぶ橋を中にして、彼女をとりまく運命的なきずなに想いをはせる。こうしたロマンの筋立てを「まず肩の力を抜いて、呼吸を乱さないように心掛けることにし」、「書いてみた結果が物語の文体となった」のは川端康成を「お手本にした」からだと著者は言う。
 見合いの話が出ても耕一はその対象外。両家庭の親ともに不承知、というのは近親相姦の間柄という、つまり「腹違いの兄と妹であるかもしれないという」噂があったからだ。桂子の卒論の指導をしたのは独身の山田助教授で、桂子はイギリス文学の古典ジェーン・オースティンに関心があった。教官たちが左傾化する中、山田は左翼に批判的な「大学教師には珍しい人間」。保守的で温厚な芯のある彼に、同じ「クラス・class」の彼女の心が傾くのは自然の成り行きである。
 川端の文体をまねたという創作を「これほど手のこんだ小説というのも珍しい」とは佐伯彰一の辞。クラシック音楽を聴き、ていねいな会話、男の学生から「お嬢さん」あつかいされ、「芙蓉の花にたとえられた」和装のにあう桂子。冗談や馬鹿笑いにも「奮闘型の生きかた」にも不得手で、平和な「日常性」がしっくりする彼女は、卒業式に袴をつけ山田との結婚式も伝統的な「神前結婚」であった。
 磯田光一が印象的な言葉をもらしている。「概して不評で、私自身も桂子に反発を感じたのを覚えているが、歳月をへだてて読み直してみると大学紛争への遠近法も不自然でなく、桂子のもつユーモラスな俗物性が、…期せずして風刺されているように感じられる」と。
 哲学的・形而上の思考に巧みであった稀有な資質の持ち主・倉橋由美子。その光輝な才智・豊饒な想像力にいち早く注目した平野兼をはじめ、室生犀星、奥野健男、山本健吉、磯田らが新しい才能を歓迎した。ところが、彼女は偏見と誤解にもさらされている。
 長篇小説『暗い旅』をめぐっては江藤淳から外国文学の「模造品」だと辛辣な判定をうけ、奥野と中村光夫の評論家同士の論争も起きた。奥野は「文学の価値は…芸術的感動の有無にかかっている」と倉橋を擁護している。
 未来社会を目ざとく照らし出した倉橋の先見性はもっと認められるべきだったのではないか。海外では高く評価されながら、伝統的な国内の文学風土とかけ離れた表現方法のゆえか、公平にうけとめられなかった。文学の師を求めず文壇に興味のなかった倉橋は、群れることになじまず「一生を過客として過ごしてもよい」と言い放つほど、どこまでも孤高で気丈そして異色な女性作家であった。
(2023年3月10日付 797号)