二条城、大政奉還の舞台

連載・京都宗教散歩(12)
ジャーナリスト 竹谷文男

二条城

 世界遺産の二条城は京都市内にあって堀に囲まれ、水の上に浮かぶかのように石垣と白壁の櫓(やぐら)がそびえ、城ではあるが平和なたたずまいを見せている。今年2月にロシアがウクライナ侵攻したことに抗議して3月、その白壁に、青と黄色のウクライナ国旗を模して夜間ライティングがなされた。京都市とウクライナの首都キーウは昭和46年(1971)に姉妹都市を結んで半世紀を超える。キーウとの姉妹都市は日本では京都市だけである。
 二条城は明治以降、京都府庁として、あるいは皇室の離宮として使用され、現在は市の所有する「元離宮二条城」として一般に公開されている。
 二条城が歴史の舞台として有名になるのは、特に慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後からで、治めたのは徳川家康だった。当代随一の作庭家である小堀遠州が城内の二の丸庭園を造った。家臣から、二条城の防御を固めるよう進言されても、家康は「このままで良い」と答えた。
 家康は戦に臨んで「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の旗印を掲げた。穢れたこの世を厭って清らかな浄土を求めるという『往生要集』(源信)の冒頭の言葉で、家康の志が感じられる。家康は東照大権現として日光東照宮に祀られているが、健康志向で薬好きだったからか、その本地仏は薬師如来とされている。
 第3代将軍家光は寛永3年(1626)、第108代後水尾(ごみずのお)天皇(1596〜1680)を二条城に招き、共に新たに建てた5層の天守閣に登って京の町を眺めた。同天皇は天守閣に登った唯一の天皇となったが、この行幸は朝廷と幕府が戦国時代を終わらせて、公武ともに太平の世を創ることを示そうとするものだった。
 後水尾天皇の諡号(おくりな)は、御自身の遺言によって決められた。京の西、水尾村(当時)には清和源氏の祖である第56代清和天皇(850〜881)の御陵があり、「水尾」といえば清和天皇を示す。徳川家は清和天皇の後孫である清和源氏を称していたが、後水尾天皇は自らが清和天皇の直系であるとの矜恃を諡号によって表した。

二条城二の丸

 江戸時代の幕が引かれた大政奉還の時も、二条城は舞台となった。第15代将軍徳川慶喜(1837〜1913)は、慶応3年10月13日(1867年11月8日)、40藩の重臣約50名を二条城二の丸大広間に集め、政権を朝廷に返す大政奉還を発表した。驚いた各藩は、ほとんど国もとに早馬を出して知らせることしかできなかった。翌10月14日(1867年11月9日)、二条城で慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌10月15日(同年11月10日)、天皇は奏上を勅許して大政奉還が決定した。
 慶喜は、皇室を重んじる水戸学を修め、幼少より文武に秀で、聡明さは誰もが認めていた。長州藩の桂小五郎は「慶喜の胆略はあなどれない」と見ていた。慶喜は、慶応の改革など日本の近代化を推進し、その時造った横須賀製鉄所は現在でも在日米軍の横須賀海軍施設ドックとして使われているほどである。
 慶喜は、明治の世に入ってから幕末における自身の果たした役割について長く語ることはなかった。政治に関わることなく隠棲していたが、政治家では伊藤博文に共感していた。伊藤から「大政奉還という尊王の大義を重んじたのはなぜか」と聞かれて、慶喜は「水戸徳川家では代々尊王の大義に心を留めていた。父もそうであり私もその庭訓を守った」と答えた(『徳川慶喜公伝』)。伊藤は、慶喜について「大政奉還した理由について我々であれば自分を言い立てて、後から理屈を色々つける所だが、慶喜公は如何にも素直にいわれたのには敬服した。偉い人だ」と述べたという。
 慶喜は、伊藤が明治42年(1909)10月にハルビン駅で朝鮮人安重根に暗殺され、遺体が11月に新橋駅へ戻ってきた時には出迎え、また葬儀にも参列した。

小堀遠州作の二条城二の丸庭園

 明治天皇に呼ばれて幕末維新のことを聞かれた時には慶喜は、ただ「浮き世のことはしょうがない」とだけ答え、同天皇は「胸のつかえが下りた」と述べられたと言われている。慶喜は明治天皇に対して、朝敵である自分を赦免し最高位の公爵を親授されたことに感謝し、その意を表すため慶喜自身の葬儀を神式とした。墓は徳川家菩提寺である増上寺や寛永寺ではなく谷中霊園に作り、皇族と同じく円墳である。慶喜は京都時代、歴代天皇陵が質素であることに感動したためと言われる。
 明治に入って慶喜の財産管理を手伝っていた渋沢栄一は、「悪評を一切かえりみず、何の言い訳もされず、人格の高さを敬慕している」と述べた。
 江戸時代が、出発においては家康を、また終焉においては慶喜という志が高く慧眼の持ち主を将軍に持てたことは、日本の歴史において大きな僥倖だった。
(2022年10月10日付 792号)