黒住宗忠(下)

連載・岡山宗教散歩(27)
郷土史研究家 山田良三

藩士も門人に
 宗忠の講釈の席には百姓や町人が分け隔てなく、岡山藩士が参加しても同じように座って話を聞きました。文化13年に2人の藩士(次田文八郎、伏見恒三郎)がお道づれになって以来、藩士が次々に加わりました。藩士の家が多い番町には定期的に会合があり、宗忠は「米搗会」(こめつきかい)と名付けました。玄米を杵で搗いて白米にする、杵が宗忠の教えという意味です。
 石尾乾介(けんすけ)は学問、徳行共に優れた人物で、「石尾氏までが入門するとは黒住は軽視できない」と言われ、藩内で宗忠の教えが評価されるようになりました。石尾は君主の池田斉政に従って江戸に赴いても日々修行を欠かさず、様々な質問を宗忠に手紙で聞きました。宗忠からの返事はすべて保管されていて、後に黒住教の経典編纂に採用され、重要な資料となります。最初は反対していた儒学者や仏教者、神道家なども、宗忠の教えと人柄に触れ、「門弟にしてほしい」と申し出る人が増えました。
 門弟の菱川銀三郎は寺男で、講釈を聞いて感動し、入門を願うと、宗忠は「仏さまと住持さまにきちんと挨拶をしてから来なさい」と諭したそうです。銀三郎は人の役に立つことを率先して行い、見返りを求めず、宗忠の側に仕えて働きました。
 河上忠晶(市之丞)は著名な儒学者で、大塩平八郎と親交があったため藩では一時閑職に置かれていました。最初に宗忠の所に来たのは、目が見えなくなった母に切望されたからです。宗忠の人柄に惹かれながら、学問が邪魔をして素直に教えを受ける気になりませんでしたが、やがてそのことに気づき、教えを受け入れました。宗忠に母のためにおまじないを頼むと、「あなたの誠は天照大御神様に届いています」と言われ、帰ると母親の目が回復していたのです。門人になった河上は「宗忠大明神御伝記」など多くの書物を著しました。
 文政7年(1824)宗忠45歳の時、2回目の伊勢参りの途中、京都の吉田家で今村宮の神主の許可を受け、以後、宗忠と名乗ります。
 文政11年(1828)お道づれのための「七カ条」が与えられました。それが「日々家内心得の事」です。「一、神国の人に生まれ常に信心無き事 一、腹を立て物を苦にする事 一、己が慢心にて人を見下す事 一、人の悪を見て己に悪心をます事 一、無病の時家業おこたりの事 一、誠の道に入りながら心に誠なき事 一、日々有り難き事を取り外す事
 右の条々常に忘るべからず 恐るべし 恐るべし たち向こう人の心は鏡なり 己が姿を映してやみん」
 「神国」とは「天照大御神様の御光の行き届くところ」、あまねくこの世に生を受けたものは正しい信心が必要で、信心を邪魔するのが、腹を立てたり、苦にしたり、慢心したり、誠意のない生き方なので、日々すべてのことにありがたく生きようという教えです。日々の「日拝」と繰り返し唱える「大祓詞」と合わせて黒住教の大切な修行となります。

天照大御神様の 御開運を祈る
 天保14年(1843)宗忠は今村宮の神主を息子の宗信に譲ります。この年、後に六高弟の一人とされる星島良平が母に連れられて来ました。翌年、邑久郡で塾を開いていた時尾宗道が、同じころ森下景端が入門します。森下景端は武芸と学問に優れ、後に大分県令になり道を伝え、ここから九州に教えが広がりました。
 弘化2年(1845)後に高弟になる赤木忠春が講席に来ます。赤木は美作久米南(現久米南町)の郷士で、眼病で目が見えなくなり、道づれの叔父に勧められて話を聞きに来たのです。宗忠は神と人とは一体であることを教え、「筏仙人」の話を通して信心の大切さと「病気など治るのが当たり前」との心を教えました。宗忠の教えに感動した忠春は、8年間見えなかった目が見えるようになり、熱心な弟子になります。赤木は宗忠没後、京都で教えを広め、吉田家に願い出て、宗忠大明神の神号を頂きました。そして神楽岡に宗忠神社を創建し、その後、神楽岡宗忠神社は孝明天皇の唯一の勅願所になります。
 宗忠は6度伊勢参りしていて、2度目の時、御師に「この度は何を祈られるのか」聞かれ、「天照大御神様の御開運をお祈り申し上げます」と答えました。その意味を聞かれ、「一人でも多くの人が天照大御神様の御神徳のありがたさと、自分が神様のご分心であることの大切さを知ることで、天照大御神様の道が広まり栄えることです。道が広まれば人々も栄え幸福になり、そのことを天照大御神様も強く希望されています」と答えたのです。神と人との関係は、おかげを与え、受ける一方的な関係ではなく、親から命を頂いた子が、命を大切に生きて親を喜ばすように、神に喜びを返すのが人としてのあり方だというのです。それは宗忠が親を失う哀しみから立ち直った天命直授の体験から得たものでした。
 宗忠の肖像画は讃岐牟礼出身で、邑久郡豊原村に定住した画家武田五峰が描いたものです。五峰は黒住の教えを信じ、宗忠の巡講に度々追随して描きました。また生坂藩の侍で画家の松田翠崖が描いた肖像画もあります。
 嘉永元年(1848)、家の改築が始まり、その途上、宗忠が話したのが「誠ほど世に有りがたきものはなし 誠ひとつで四海兄弟」という歌とそれにまつわる教えでした。「誠を尽くして付き合え、身分の差別もない、四海の人々が平和に暮らす世になる。みんなが面白く楽しく嬉しく生きるのが平和で、天照大御神様はいつもそれを望んでおられる。そのような世界を目指して励もう」との教えで、実際、四民平等の明治になりました。
 同年夏、宗忠の男子の孫が誕生し、門人らは「三代目が生れた」と喜びました。ところが10月8日に妻いくが64歳で亡くなり、翌年、菱川銀三郎が没します。11月17日の講釈は「竜と虫」で、天に登る竜に虫たちがくっついて登ろうとしたが、竜が衣を脱いだのでふるい落とされた、自分で修行しなければいけないという話です。これが宗忠の最後の講釈になりました。5日後、宗忠は体調がすぐれず床につき、嘉永3年(1850)2月25日に息を引き取り、享年71でした。
 明治5年に黒住講社として公認され、9年には他教団に先駆け別派独立を許され、15年に「神道黒住教」を名乗ります。明治18年に、岡山の地元大元(岡山市上中野)に宗忠神社が創建され、19年に御神幸が始まります。昭和49年、神道山に新大教殿が完成し、黒住教本部は神道山に遷りました。大元の宗忠神社は、教祖宗忠を顕彰し、岡山市民に親しまれる身近な神社として日々参拝者が絶えません。

宗教者平和会議
 二代教主宗信のころ、大工がお道づれの目印に日の丸を掲げているのを見て、広く勧めるようになりました。日の丸は、宗忠が伊勢神宮参拝のお道づれが目印に胸に付けたことから始まったお道のしるし(教章)でした。明治3年に日の丸が日本の国旗になったので、黒住教では日の丸に教の一字を入れ教章としたのです。
 宗忠神社の地が「大元」と呼ばれるのには、次のような言い伝えがあります。伊勢神宮に参拝したお道づれの岡本京左衛門が、足が立たない町人を見て祈ったところ、立てるようなったのです。ところが噂が広がり、怪しい者だと逮捕・投獄されました。京左衛門は牢屋でも熱心に黒住の教えを説き、神宮神主で国学者の足代弘訓がその教えを聞いて納得し、「神道の大元はここ伊勢だが、教えの大元は備前の中野である」と言ったことから、いつとはなしに宗忠生誕地の上中野を「大元」と呼ぶようになりました。
 今村宮には東郷平八郎の筆による「今村宮」の額、黒住教本部には「宗忠神社」と「天照大御神」の掛け軸があります。六高弟の一人の森下景端が大分で広めた黒住の教えが東郷平八郎の親族に伝わり、東郷も黒住の教えを学んでいたのです。日本海海戦の時、東郷は旗艦三笠の甲板で、宗忠の歌「身も我も心を捨てて天地の たった一つの誠ばかりに」を吟じながら戦いを見守ったと言われています。
 黒住教は文化活動として「吉備楽」の保存や継承、備前焼の保存や顕彰などに取り組んでいます。福祉活動では昭和40年、重症心身障害児施設旭川児童院を開設、福祉施設の旭川荘の創建を支援し、阪神大震災や東日本大震災の時には教団を挙げて被災者の支援活動を行いました。自殺者防止のための電話相談サポート「いのちの電話協会」には大元の建物の一部を提供しています。
 他宗派・教団との協力活動にも積極的で、世界連邦日本宗教委員会、世界宗教者平和会議日本委員会に加わり、昭和51年には黒住宗晴教主が第1回アジア宗教者平和会議に出席、昭和54年の第3回世界宗教者平和会議で祈念、昭和62年には比叡山での宗教サミットで講演、平成18年には京都で開催された「第8回世界宗教者平和会議」に日本代表の5人の1人になっています。
 平成7年にはダライ・ラマ法王を招請し、平成12年には「ミレニアム世界平和サミット」に参加、また「万国宗教会議」や「比叡山宗教サミット」、ローマ教皇が呼びかけた平和の祈りの集会などに参加し、平成23年には「第33回世界連邦平和促進全国宗教者岡山大会」を神道山で開催しています。
(2021年5月10日付 775号)