天国よりも、ふるさとを
2021年2月10日付 772号
「天国はいらない、ふるさとがほしい」という詩を残したのは、ロシアの共産主義革命に批判的だった詩人セルゲイ・エセーニン(1895〜1925)である。チェルノブイリの原発事故で汚染され、移住が命じられたナージャ村に住み続けている少数の人は、勧告する人に「なぜ村に住み続けるのか」と聞かれ、エセーニンのその詩を口にしたという。
コロナ禍で「自分の命を守ること」が叫ばれるが、「それだけでいいのか?」と思う。守るべきは自分の命だけでなく、周りの人たち、地域の命ではないのか。グローバル経済で失われたのは、私たちが暮らすふるさと、ふるさとへの愛ではないのか、と。
愛郷心の回復
復興から成長へ、経済が最優先された戦後社会では、共同体の人間関係を解体していくことが人々の自由や幸福につながるとされていた。いわゆる戦後民主主義では、日本のムラ共同体が先の大戦を起こしてしまったという考えが強く、西洋のように一人ひとりが自立した「市民社会」をつくらなければいけないという思想が支配的だった。経済史学の大塚久雄や政治学の丸山眞男らがその代表的イデオローグである。
日本の経済成長は地方から都会へ移住した若者たちに支えられ、彼らが生まれ育った地方の共同体は、それに伴い衰退していった。「個」を中心とした民主主義と経済的価値を求める資本主義を選んだ近代国家は、やがて国境を超えるグローバル経済に翻弄されるようになる。
1973年の米中国交正常化とオイルショック、78年に始まる中国の改革開放路線で経済のグローバル化に拍車がかかり、実体経済よりも金融経済が市場をけん引するようになると、世界的に貧富や都市と地方との格差が広がり、自然環境は荒廃していった。米中は50年を経て新冷戦時代と言われるほどの緊張関係になった時代に世界がパンデミックに襲われたのは、時代が進む方向を見直すときを示唆しているようでもある。
世界的ベストセラーになったスウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(新潮新書)によると、人間の頭脳は狩猟のために、危険を避けながら能率的に身体を動かそうとして発達したという。スマホ脳の問題も運動不足が一番で、次に記憶を整理し、長期記憶に蓄えるための睡眠が不足すること。人間の脳はデジタル社会に適応していないのである。
SNSの影響を感じるのは、自分に都合のいい情報だけ仕入れる傾向が強まったことである。例えば、アメリカ大統領選挙を巡り陰謀説が数多く寄せられてくる。脳にとって情報は大事な栄養だとすれば、それがひどく偏っているのである。それを避けるには幅広い教養や情報リテラシーが必要に思えるが、ハンセンは運動を勧める。身体性の回復が脳を正常にするという。
エセーニンがいらないと言った天国は、革命を経て実現するとされた共産主義社会のことで、現実に即しない脳の想像世界であった。脳は合理的、論理的に考えているようだが、理性の対象ではないが大切な要素を考慮しない。さらに、脳は目的が至上なので、過程が非人道的であっても容認する。エセーニンは、それよりも周りの人たちのために日々働くような地域の存在が大事だと言うのである。
松本健一はこれをパトリオティズム(愛郷心)と呼び、近代国家の「市民社会」は絵に描いたモチにすぎないと断じた。全国に広がる限界集落や荒廃した自然を回復させるには、人々の生き方、国の進み方を大きく転換しなければならない。未だ出口の見えないコロナ禍は、それを警告しているのではないか。
歴史を動かす感染症
日本史に残る最初の感染症の流行は崇神天皇5年、西暦300年頃で、大和の三輪山麓の纏向周辺である。当時、水田の広まりで人々が集住するようになり、初めての都市が形成され、「三密」になったのが原因であろう。それを機に、現在の天皇につながる王権と祭祀が誕生したのも興味深い。以後も感染症は歴史を大きく動かしてきた。
自然に即しながら生きてきた日本人の宗教性は、現世利益が基本で、天国のような脳だけが考える理想には懐疑的で、共産主義にも深入りしなかった。その健康的で現実的な感性により、これからの社会のあり方を展望したい。