シュヴァイツァーの信仰と倫理の問題点

連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(18)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫

 神学者としてのシュヴァイツァーのキリスト教理解は、聖書の記述に疑問符をつけることから始まった。それまでのキリスト教の世界では、聖書は絶対的書物で一言一句に一点の誤りもないとされていた。聖書の記述に矛盾を見出したシュヴァイツァーは、神学者としてまた医学者として、その矛盾を理性的に探求していった。
 その一つがイエスの終末観である。当時のユダヤ教には、世の終わりが間もなく来るという終末観が漂っていた。シュヴァイツァーによると、イエスもその終末観に生きていて、しかもイエスの言動には緊迫した徹底的終末観があった。「全財産を処分して私に従ってきなさい」という民衆に対するイエスの呼びかけも、イエスの十字架への道行きも、世の終わりの切迫感から出てきたものである、と彼は理解する。
 シュヴァイツァーは、神の霊によって生まれてきた「神の子」としてではなく「人の子」としてイエスを受け入れた。イエスは「人の子」として弱者に深い理解と同情をもって接し、命がけで彼らを愛し、彼らに奉仕した。この徹底した愛の行為こそが、イエスを「神の子」として受け入れる信仰につながったのである、というのがシュヴァイツァーの理解である。「信仰は理性によって裏付けられたものでなくてはならない」と彼は明言している。
 これは当時のキリスト教世界での理解とは相いれない。そのためシュヴァイツァーのキリスト教思想は教会では危険視されることもあり、快く受け入れられなかった。アフリカへの医療奉仕がフランスの伝道協会に、はじめ断られたのもそのためである。
 一方、アフリカにおけるシュヴァイツァーの徹底した奉仕活動は、イエスの愛の行為を具現化したものとして高く評価され、人びとの称賛の的となった。「密林の聖者」「人類の灯」「20世紀最大の人」とも言われ、1953年にはノーベル平和賞が与えられた。当時のアフリカの原始的で過酷な実情を知るならば、彼の奉仕の気高さがよく理解できる。
 そのような人物が、いま忘れ去られようとしている。一方で高く評価されながら、他方では非難されているのだ。それには3つの原因がある。1つは彼のキリスト教信仰の問題。2つ目は彼の「生命への畏敬の倫理」の矛盾点。3つ目は現地の黒人に対する彼の接し方である。
 1については、この項で簡単に述べたので、詳しいことは省略する。2つ目の彼の倫理における矛盾点は大きな問題なので、実例をあげながら解説しよう。
 まず、倫理とは何かを考える必要がある。端的に言えば、倫理とは相互に関係しあう人間が共存するための規範や原理についての学問である。これは永遠に不変とも考えられ(プラトンやカント)、歴史の中で発展変化していくものとも考えられている。後者は近現代に生まれた思想であって、われわれが一般的に理解しているのはこの倫理である。
 分かりやすく言えば、人が気高い人間としてどのように他者に接したらよいのかを考える学問である。この倫理が希薄になると、差別・格差・争いなどが生じる。倫理観に一石を投じたシュヴァイツァーのどこに問題があるのか……、これを検討しよう。
(2020年12月10日付 770号)

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