金光大神(中)

岡山宗教散歩(23)
郷土史研究家 山田良三

金光教本部広前会堂

神の「お知らせ」受ける
 文治(後の金光大神)は34歳の時に実母を、38歳の時に実父を亡くします。41歳の安政元年(1854)12月25日に5男が誕生しましたが、家族の間で問題が生じました。年を越すと文治は42歳の大厄で、生まれた子は2歳になり、「四十二の二つ子」といって、「親が42で2歳の子があれば、子が親を食う」障りがあるという俗信がありました。家に置かない方が良いとの意見もありましたが、養母が「私が育てる。心配ない」と言い、翌年、正月2日生まれとして氏神に届けることにしました。
 安政2年正月を迎えた文治は家に歳徳神(としとくじん)を奉り、氏神に参拝して厄晴れを祈願、5男を、正月2日生まれ、卯年の「宇之丞」と名づけて守り札を納めました。4日に備後鞆津の祇園宮に参拝、14日には備中吉備津宮に参拝して鳴釜の神事を受けると、二度受けて二度とも釜が鳴り、稀でとても有難いことでした。その足で備前西大寺観音院に参拝して会陽(えよう)に参加、備後、備中、備前の主要な社寺に入念な厄晴れ参拝をして、新年を出発しました。
 ところが、4月25日に文治は「のどけ」という病に罹ります。高熱で喉が腫れて声が出ず、湯水も飲めず、生死の境をさまよいました。麦の刈り入れに忙しい時期で、親族が手伝いに来てくれましたが、「宇之丞を育てなければ」との声もありました。
 4月29日の夜、親族が集まり、石鎚信仰の先達だった義弟の古川治郎を先頭に、病気平癒祈願をしました。すると治郎の口から、「家の建築について金神に無礼している」と激しいお告げがあり、岳父の古川八百蔵が「方角を見て建てた」と強く返答しました。そのやり取りを聞きながら文治は胸を突かれ、無礼を詫びる気になります。すると喉が開け、「無礼のところ、お断り申し上げます」と詫びの言葉が出たのです。すると治郎の口を通して、「文治はよい。本来なら熱病に罹るところを、のどけに変えてやったのだ。信心の徳で神が助けてやる」とのお告げがありました。
 この時を境に文治は「金神の祟りを招かないようにする信心」から、「神のお知らせを受けきろうとする信心」に変わっていきます。その時、神から「自分の真意を受け取ることが出来る人を初めて見出した」と知らされました。その後、病状は徐々に回復し、文治は月に3日(1、15、28日)は必ず神参りをし、信心に励むようになります。そんな文治のことを、村人たちは「信心文さ」と呼びました。

取次の始まり
 文治44歳の安政4年(1857)10月13日、亀山村に住む実弟・香取繁右衛門の家から使いが来て、「繁右衛門に金神様が乗り移り、乱心なので急ぎ来てほしい」とのこと。訪ねると、繁右衛門が神がかりして「金神が頼むことがあって呼びにやった。言うことを聞いてくれるか」と言うのです。応諾すると、「やむなく宅替えをしなければならなくなった、建築費用を頼む」とのこと。文治が「しましょう」と快諾すると、「神も安心した」とあり、繁右衛門は鎮まり眠りにつき、翌朝聞くと、前日のことは「何も知らない」とのことでした。
 文治の支援で家が建ち、繁右衛門は金神を祀って神前奉仕を始めました。繁右衛門の金神信仰は、「堅盤谷のばあさん」と呼ばれた小野うたが始めた信仰で、それまでの祟る神の金神に日柄方位を伺い、守ることに加えて、金神の意思を伝える人格的関係の信仰でした。
 妊娠中の文治の妻が体の不調で繁右衛門の金神に祈願すると、「腹の子を産むまいと思っているが、産むことにせよ、そうすれば身軽くしてやる」との「お知らせ」があり、心得違いを詫びると身軽くなり、おかげを受けました。
 安政5年正月、文治が鏡餅をもって亀山(繁右衛門の金神)に参詣すると、神から、「金乃神下葉の氏子」として柏手が許されました。3月頃からは手にお知らせを感じるようになり、7月には口を通してお知らせがあり、神仏への信心のし方から農作業、さらには家族の健康や生活のことまで、お知らせの通りに行うことでおかげをいただきました。中には当時の因習とは異なるお知らせもありましたが、そのままに行うとおかげがあったのです。そうして家は豊作で家族も病気から守られるようになります。11月29日、床柱に神棚を作り神を祀ると、12月24日、名を「文治大明神」と改めるよう命じられます。最初に与えられた神号でした。
 安政6年(1859)元旦早々、「倅の浅吉が15になる。病気を理由に隠居願いを出せ」とのお知らせと、「春先に子供が疱瘡にかかる」との予告がありました。庄屋の小野四右衛門に隠居願いを出すと、なんなく認めてくれました。5月の末に2女のくらが病気になり、重体に陥りましたが、お知らせのまま看病すると、奇跡的に回復しました。
 信心が飛躍的に成長する中、6月10日「金子大明神」の神号が与えられました。
 5男の宇之丞が疱瘡になりますが、俗説に囚われ生年を偽ったことを詫びると回復し、名を虎吉と改めます。
 農作業から家族の健康や暮らしのことまで、神のお知らせのままに生きることでおかげを受ける様子に、村人たちも目を見張り、自分たちにも取次をしてほしいと頼む人が増えました。取次に忙しくなった文治は牛使いを浅吉に任せます。
 10月21日夕刻、神からの重大なお知らせが下り、「世間に多くの難儀な人があるから取次助けてやってくれ。神も助かり、人も立ち行く。人あっての神、神あっての人、末々繁盛いたし、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く」と取次に専念せよとのことでした。金子大明神は熟慮の上、取次に専念する決意を固めます。この神伝が金光教の立教とされ、「立教神伝」と呼ばれています。
(2020年12月10日付 770号)