『劒岳〈点の記〉』新田次郎(1912〜80年)

連載・文学でたどる日本の近現代(12)
在米文芸評論家 伊藤武司

明治の測量士
 新田次郎が『強力伝』で直木賞を受賞したのは44歳、やや遅咲きだがその後の躍進が素晴らしい。『縦走路』『八甲田山死の彷徨』『栄光の岸壁』『雪のチングルマ』『富士に死す』『銀嶺の人』『聖職の碑』『アイガー北崖・気象遭難』など、大自然を背景にした作品を次々に発表し、山岳小説の名手の地位を築いた。『武田信玄』など時代小説もある。『劒岳〈点の記〉』は、北アルプスの測量に活躍した男たちのヒューマンドラマである。本作には、中央気象台勤務の気象学の専門家だった新田の経験が生かされている。
 正確な地図作成に必要な近代測量の始まりは明治28年で、明治末には完成に近づいていた。唯一、空白なのが中部の立山一帯で、陸軍陸地測量部の測量官・柴崎芳太郎がその任に当たることになる。
 測量部技術部門には三角科、地形科、製図科があり、柴崎は三角科に所属。その任務は現場の測量と三角網の完成で、それを基礎に地形科が地図の体裁を整え最後に製図科が印刷して正式な地図となる。中でも、未知の山野をめぐる三角科は一番男らしい仕事と憧れの的だった。
 「点の記」とは、地図上の三角点を設定するときの記録の総称で、測量士や測夫たちの苦労の思いがこめられている。その手順は地形の偵察、場所の選定、測標(やぐら)の構築と標石の埋定と進み、経緯儀による観測で完成する。最終の観測は水準器、羅針儀、望遠鏡、双眼鏡などを使用する。国土地理院発行の5万分の1の地図に等高線があるのは観測が終了しているからである。三角点は高く見晴らしの良い場所が最適で、多くは山の頂上が選ばれた。
 柴崎が未踏峰の剱岳を含む空白地域に三角点網をうちたてるリーダーに推挙された頃、民間の山岳会も剱岳の初登頂をめざしていた。軍の測量部上層では、素人の民間人に負けられない気分が高揚していた。
 軍人出の柴崎は、下士官のとき文官として陸地測量部に採用され、見合い結婚したばかりの30歳。測量官の仕事は家で暮らすより出張先にいる方が多い。18歳の新妻・葉津よは、新婚生活の1週間後に現地に赴く夫を見送り、「このような生活を一生送らねばならないものかと思うと、涙が溢れそう」になるのであった。

登山禁止の霊峰
 富山駅で柴崎を出迎えたのは山の案内人・人夫頭の宇治長次郎。常に柴崎を支えて活躍する重要な人物である。人夫2人を雇い天幕や食料を奥地へと運ばせる。
 701年に霊山として開かれた立山とその周辺一帯は山岳信仰が盛んで、剱岳は特に「地獄の針の山」として登ってはならないとされていた。山麓には修験道の寺があり、独自の伝統と影響圏をもっていた。
 長次郎の案内で下見をした柴崎は、立山連峰の奥にひときわ険しい山を認めた。標高2999メートルの剱岳である。「鑢で磨き上げられたような鋭い岩峰」「肩をいからし近づく者を威嚇しているような」雄姿であった。
 頂上への道筋は3つ考えられた。が、どの道筋も7、8合目付近で大岩壁にさえぎられていた。雷鳥沢からのルートを調べた柴崎と長次郎は、長年一人の行者が修行をしている岩屋へ立ち寄った。白装束姿の髪もひげも伸びほうだいの年老いた行者が、剱岳登頂に重要な助言をしてくれることになる。
 ハイマツの藪やナカカマドやハンノキの藪と草場などが混じる岩場を越すと、二つに分かれた大雪渓が眼前に現われた。左の雪渓が平蔵谷で、右側のより大きな大雪渓が長次郎谷である。柴崎は、雪渓の尽きるあたりに大岩壁があるのだろうと想像する。地形のスケッチを続け、テントに帰ってもその日の記録を整理しなければならない重要な仕事がある。
 10月の山はすでに冬に入り、柴崎ら4人は下山を開始する。雪が降りだしたのだ。洞窟の行者を説得して一緒に、途中から背負って下山する。別れのとき行者は、命を救ってくれたお礼にと剱岳を登るヒント、「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」の一言を残す。
 年が改まると、中部山岳地帯の空白部に三角網を設ける計画が4人の測量官に下された。その中心に柴崎がいて、軍の意向では剱岳登頂は事実上の命令になっていた。測量士1人の責任は、20キロ四方の測量区画に三角点を立てることで、4つの空白が埋まれば地図ができる。彼は20以上の三角点を10月中旬までに設置する案を立てた。チームは6人編成。測夫の生田信、木山武吉が助手となり、現地の人員は長次郎に宮本金作、岩木鶴次郎である。
 4月早々、測夫2人と現地へ入った柴崎は県庁、警察署、営林署また村役場にあいさつ回り。剱岳は「弘法大師が草鞋三千足を使っても登れなかった」山なので、立山信仰の有力者への根回しも大切な仕事であった。しかし、長次郎は暗闇で腐った卵をぶつけられ、地元の抵抗の強さを思い知らされた。
 雨や雪など天候不順ともなれば測量は困難である。当時、測量調査で遭難するのは「観測隊の恥」とされていた。避難場所も設け、柴崎は毎日気圧を測り、長次郎は経験から天候を予測した。しかし万端の準備をしても、不測の事態が起きやすいのが山中である。中でも一番怖いのが雪崩だった。4月末、一行が山桜の咲く奥山へと向かったとき、突然、ブロック雪崩が発生した。皆は吹きとばされ柴崎はかろうじてハイマツにひっかかり一命をとりとめることができた。

剱岳登頂に成功
 明治40(1907)年7月12日、柴崎隊はついに剱岳登頂に成功する。ただ一つ可能なルート・大雪渓の道は、行者の助言から悟ったのである。しかも梅雨が一時的に上がる日、気象変化のすきを狙う作戦が功を奏したのである。
 晴れ上がった剱岳の頂上は、大小の岩石が積み重なる岩の山で、白と赤の測量旗を立てた。岩陰のくぼみに古めかしい錫杖と刀剣の鉾先を発見し、かなりの昔、修験者が登っていたことが分かった。2週間後に再び登頂。現場の状況から、柴崎は三等三角点の設置をあきらめ、補助的な四等三角点の設置をすることにした。
 幕営地に戻ってから、東京の測量部長に電報を打ったが、初登頂ではないことから公表されることはなかった。さらに下方の前線基地にたどり着くと、山岳会から柴崎隊の輝かしい初登頂を祝う電報が届いていた。軍部は三角点設置という観点でしか評価しなかったが、山岳会は、剱岳登攀という歴史に残る偉業を心から喜んでくれたのであった。小説からは、明治人の任務遂行に徹する職業魂が伝わってくる。実直な日常から、彼が強靭な精神と周りへの気配りを有する生真面目な人物であることがわかる。
 男ばかりの中で、妻の芯のある献身ぶりも見逃せない。葉津よは、出発前に身の回りの整理や手紙類を焼却する夫を、「まるで戦争にでも出掛ける」ように思う。現地に届く葉津よの手紙をくり返し読む柴崎の様子に、仲むつまじい夫婦愛を感じることができる。
 1年近くの山奥での測量を成功に導いたのは、6人の力を一つにまとめあげた柴崎のリーダーシップにある。部下と同じものを食べ、狭いテントで寝起きを共にしたのである。対照的に同宿となった県役人の傲慢さが描かれている。
 さらに、絶対に見落とせない点は、彼を全面的に支えた宇治長次郎の誠実かつ律儀な人柄がある。彼らは出会いの日から観測の終了まで、互いに深い信頼関係をつくりながら、剱山登頂と周辺の三角点網の設置に全力を尽くしたのである。そうした視点では、この2人の人物が本小説の主人公といってよいだろう。明治の国づくりを支えた人たちが印象的に描かれている作品である。
 国土地理院の広報によれば、剱岳山頂に平成16年、新たに三等三角点の設置がなされている。それは、柴崎の測量隊が剱岳に登頂し、四等三角点を設けた明治40年から100周年を記念するものであった。
(2020年9月10日付 767号)