『氷壁』井上 靖(1907〜91年)

文学でたどる日本の近現代(10)
在米文芸評論家 伊藤武司

 井上靖の文章的特徴は絵画的で叙事的色調が一般的といえるだろう。均整のとれた輪郭、簡潔で静止的という特徴は、井上文学を支える基本である。
 この志向性が効果的に現われて、中国大陸や西域に材をとった堅固で叙事的な歴史ものを描いた。『天平の甍』『敦煌』『楼蘭』『蒼き狼』『風濤』『楊貴妃伝』がこうしたジャンルにある。歴史小説としては『おろしや国酔夢譚』『淀どの日記』『本覚坊遺文』などがある。
 一時期、彼は本気で美術批評家をめざそうとしたという。それが起因しているのか人物の描写が絵画的で、恬淡と観念的な枠組みに薄められているとの批判的指摘がある。
 ところでこの文章作法が、男女の心をかよわせる恋愛がモチーフになれば、まことに繊細で美しいストーリー展開となる。男と女の心理的絆を、現実社会ではありえない純粋な愛の形式として捕捉し、その創作的虚像を物語にはめこむわけである。
 井上文学に登場する人間は、押しなべて、善人や良心的な人物が多いといわれる。すなわち、人間の内部にひそむ猜疑や懐疑や憎悪といった俗物性・功利性に目を背けている。
 創作の常道としては、たとえ善人や良心的とされる人間であっても、その心の深淵に、悪意や名誉欲や嫉妬や憎悪といった功利的心理を潜ませるのがリアリズムであろう。が、井上の作品では、功利の交錯といった生身の人間の内包する前提要素が弱められ、抒情的な『猟銃』があるかと思えば、『闘牛』のように政治性や社会的観点と没交渉の小説が出現する。
 これはともすれば創作上欠点ともされうる。しかしながら、独自の文学世界を彩っていることも事実で、換言すれば、ウイークポイントを熟知しながら、泰然と通り抜ける強い芯を確立した作家ということになるだろうか。

事件を純愛ロマンに
 『氷壁』は、新聞小説の全盛期に長期掲載された井上靖円熟期の代表作の一つ。昭和31年1月に実際に起きた「ナイロン・ザイル事件」を下敷きにしている。しかし作者はこの事件を謎ときの推理小説にではなく、若い男女の純愛ロマンに仕上げたのである。
 小説の主人公・魚津恭介が、晩秋の北アルプスの登山から都会へもどる車中で目を覚ました時、「戸惑いに似た気持ち」に襲われた。「おびただしいネオンが明滅し」「赤くただれている」「東京の夜景」が彼の目に映っていた。その気持ちは静かな山中にいたこととは別世界の感覚で、「再び都会の喧騒の中に引き戻される時の、それはいわば一種の身もだえのようなもの」だった。
 そして登山姿の魚津はホームに降り立つと、「さあ、歩いて行け、人のむらがっている方へ。さあ、踏み出せ、大勢の人間が生き、うごめいている世俗の坂巻の中へ」と、心の中でつぶやいた。
 この晩、魚津は先月以来顔をあわせていない山の友人・小坂乙彦とたまたま落ち合うことになった。人待ちをしている小坂の場所に着くと、やがて和服姿の美貌の女性が近づいてきた。以前、魚津は小坂からある「女性に対するひそかな愛情を打ち明けた」相談を受けていて、一目でこの若い女性が当の矢代美那子であることを悟った。三人で同席する間に、いつのまにか魚津自身が美那子に魅せられ平静さを失っていることに戸惑ってしまう。
 彼女は若くして夫に死に別れ、その後、30も年の差のある初老の後妻になっていた。あるきっかけから知り合った小坂と美那子は、男女の深い関係になったのである。
 美那子の夫・教之介は、2000人の従業員を抱える大企業のエンジニア上がりの重役。毎朝、会社から迎えに来る車に夫を送り出すと、夫が帰宅するまでの時間はお手伝いとの自由な時間となる。嫁いでからなにかと優しくしてくれる夫で、経済的にも何不自由のない日常を送ってきた。しかし、あまりにも平穏な日々、変化のない夫婦の会話などに物足りなさや心の疲れを感じる若さを彼女はもっていた。小坂との不祥事はそうしたさ中で起きたのだった。
 もともと彼との出会いは偶然で、二人の秘密に終止符をうたねばと焦る思いでいる美那子に対し、小坂はいつまでも吹っ切れないでいた。
 それ以来、美那子は、夫との静かな会話の端々に、小坂との秘密を勘ぐられているような不安感がつのり、苦痛や困惑や息苦しさ・厭わしさがまとわりついてしまう。それで初対面の魚津に、問題解決の助けをしてくれるよう頼んだわけである。
 ところがである。魚津がそうであるように、美那子も魚津に好意以上の気持ちを寄せるようになっていった。『氷壁』のストーリーの男女のからみあいは徐々に複雑な様相をみせてゆく。
 魚津と小坂は東京ビジネス街の異なる企業の企業戦士という以上に、きわめて近しい山仲間である。彼らの山登りは尾根歩きの登山ではない。ピッケルやハーケンやザイルを駆使して、雪や氷におおわれた岸壁の登攀に挑戦する新鋭のアルピニストなのである。山のことになるとボーナスを全部はたいても悔いのない山キチであるが、都会の世俗的な事柄となると、お互いの会社や相手の事情もよくわからないというアンバランスなつながりである。

聖と俗の色分け
 さて、当小説の創作上のユニークな構造に触れておこう。『氷壁』は、主人公や人物を聖と俗の二つの舞台に置いて創作している。冒頭部分を思い浮かべてみよう。主人公は、赤くただれた都会の夜景をみながら、星のまたたく静寂な山のたたずまいを思い起こしていたのである。
 すなわちこの小説の特色は山に清浄なイメージをあたえ、それとは対照的なイメージに都会の世俗的社会をすえた。いうまでもなく、主人公・魚津の位相が山の世界にあることは、タイトルを考えれば自明である。作者はこの二つの異なる地平、聖と俗に色分けされた上に複数の人物たちを登場させ、彼らの言動を追ってゆく。
 翌日、勤務先に出社した魚津は再び小坂に連絡。美那子と小坂の関係についての相談と、次の山行のプランの確認の約束をとりつける。年末の予定では、彼らは前穂高の奥又白東壁に挑むのである。
 夏場では十分に知っている岸壁ではあるが、厳冬期の登攀はいまだ誰も記録していないルート。美那子のことでとかく暗いムードに沈む小坂が、ひとたび山の話に及ぶと意欲的で精悍な顔つきになる山の親友が魚津は好きであった。ところで話のやりとりの最中、美那子の件からぎくしゃくと揺らぐお互いを感ずるのであった。
 12月末、二人は北アルプスへ出発。列車とバスを乗り継いで、最終地の雪に覆われた部落でスキーにはきかえ上高地をめざす。以下魚津の山日記は、簡潔に書きとめられ小気味よい。
 ─30日、八時ホテル番小屋出発。河童橋まで30分。─31日、朝七時出発。……奥又の池畔に三時到着。タカラの木の根もとにテント張る。雪落ち始める。夜になってから風出る。
 元旦の早朝、彼らはモチをいれた雑煮と二かけらほどのチョコレートをかじって直ちに出発。
 北壁のとっつきから、ピッケルを突きさし、ザイルを使用しながら慎重に上へと昇ってゆく。ところが岩場があと30メートルで尽きるというカ所で陽がかげりはじめ風も出てきた。
 ─五時半、全く暗くなり、登攀不可能。……フェースの上部でビバークを決意。
 狭い岩場の雪をかき、ザイルで体を結び身をよせあう野営である。吹雪は夜中ふきすさび、寒さもひどく、二人は何度も浅い眠りから目を覚ました。
 翌朝、やや風雪がおさまったところで最後の登攀を試みる。3時間くらいで頂上に着くだろう。小坂がトップにたった。雪煙がふきあげる最後の難場にさしかかる。苦しい危険な作業である。そして「事件はこの時起こったのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。……そして落下する一個の物体となって、雪煙の海の中へ落ちて行った。……小坂は落ちたのだ」。
 魚津からの遭難の報を受け3日後に救出計画が練られた。しかし雪深い中での捜索はそれを許さず、春先まで待たねばならなくなった。
 最新のナイロンザイルが切断された山岳遭難事故は、たちまち新聞の社会面を大きく飾った。事の真相をめぐって、ザイルの切断説以外に自殺説あるいは殺人説そしてザイル操作のミスなど色々な憶測がとびかい、その軋轢で魚津は肉体・精神の両面で窮地においこまれてしまう。
 一方、小坂との問題を清算する心を固めていた美那子は、彼の遭難を知ると、他人事とは思えない感情に沸きたった。若い青年と結んだ一度の記憶が抗しがたく蘇るのであった。

ザイルの切断実験
 小説の流れはここで一新し、もう一人の若い女性、小坂の妹・かおるがかかわってくる。相手をまっすぐに見つめて話す、気性のしっかりした女性である。そして、かおるは、兄と魚津の深い心の絆のわかる娘であった。
 「兄の死を一番悲しむのは母で、次は魚津さんで、三番目はわたしですわ、きっと」ときっぱりと言い切ったのである。悲痛のただなか苦悶する魚津の心の傷が慰められたことはいうまでもない。
 はたして、切れないという定説のナイロンザイルは本当に切断されたのだろうか。この回答をめぐって大仕掛けな公開実験がなされた。衝撃反応テストは、なんと美那子の夫の勤める企業の主導で、そこはナイロンザイル原糸の製造元でもあった。結果は、切断という結論がくだされる。このころには美那子と夫の間は、すきま風が吹く冷ややかで空虚な関係に落ちこんでいた。
 やがて雪が溶けだすころ小坂の死体が発見された。再度の試みは、別の実験者による小坂が遭難したときに使用したザイルである。魚津が当初から主張していた通りザイルはショックで切断された。
 魚津とかおるは、かおるの母親の住む粉雪の舞う山形県に帰省したりする過程でいつしか親密度を深めてゆく。そして彼女は魚津に意表をついて愛情を告白し、さらに、真剣に結婚の意志を告げて驚かせた。
 井上はこの作品の結末を周到に準備したようである。魚津の運命を決定づける結びとなっている。単独行としては危険の伴う、穂高飛騨側の滝谷からの登頂をめざしたのである。それは新しい人生の扉を開くための、「山を生命がけで愛した」考えうる唯一の道のように彼には感じられた。
 「ガスの流れの中に魚津は立ちつくしていた。後方には美那子がいる。前方にはかおるがいる。そう魚津は思った。……前へ進むべきだ。進まなければならぬと魚津は思った」。
 彼は、小坂を失い今では心にからまりつく揺れを隠そうともしない美那子と、一途に彼を愛し慕っているかおるとの間にはさまれて、美那子との幻影をたちきろうとする。すなわち、一個の男としかつクライマーとして、「雪と岩と自分の意志との闘い」を貫いてきた最後の決断をとる。結婚の約束をかわした汚れをしらない清純なかおるに応えるかのように、それにもう一人、小坂というかけがえのない山のパートナーの面影を求めて、アルプスの奥深くへ果敢にわけいった。今の彼には、都会の中で味わってきたひどい孤独な思いはない。その間かおるは、緑と草花の咲く上高地の梓川に沿った徳沢小屋で待ち合わせをするのである。
 「突如大きい地鳴りの音がどこからともなく聞こえて来た。……大きな石雪崩の前触れの、無数の小さい石の転落が魚津の歩いている直ぐ右手の山の斜面に起こった」
 世俗の都会に背中をむけて、主人公が、清澄で神聖な大自然に赴くという『氷壁』の筋書きには死の予感が指ししめされていた。
 山は人の心を洗い清めるといわれる。純粋な大自然の中に佇むと、都会ではとうてい不可能な神々しさが感じとれるわけである。魚津の心理にこの神秘性が働いて最後の行為におよんだ、というのが作者の意図するところなのであろう。その基調は、すでにこの作品の第一章で、星のきらめく「山の静けさ」と「赤くただれている」欲望と喧騒の都会との対比でさりげなく刷りこまれていたのだ。
 美那子は、どこまでも都会の情念の中で生きる人間である。しかしそれと対極の世界の小坂や魚津との接点をとぎらせることなくつなげていった言動をどのように解したらよいであろうか。
 美那子という女性の彫像に瑕瑾を問うべきか、あるいは作家の文学的技巧の妙とすべきか、井上靖らしいスタイルであることに違いはない。
 当時、『氷壁』の新聞連載が始まると大変な評判になった。異色の登場人物に魚津の会社の上司・常盤大作がいる。最終章、魚津の遭難死をうけ、全社員たちを前にしたスピーチの下りは、部下思いの情感あふれる名場面である。常盤と矢代教之介との対決、ザイルの実験にまつわるやりとりや異なる人生観の応酬も、この話題の長編小説に厚みを増す効果をあたえている。
 井上小説の文体は総じて簡潔・平明、透明感のある文章でおさめられ、この点も読者を魅する遠因になっている。
(2020年7月10日付765号)