アフリカ行きへの7年間の準備

シュヴァイツアーの気づきと実践(11)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 アルベルトは母校であるフライブルグ大学の医学部に再入学した。30歳のときだ。医学の学びには7年かかる。神との約束は30歳からの奉仕活動であるが、すぐにはじめると、神学の学びも、バッハの研究も、パイプオルガンの演奏もできなくなってしまう。彼は考えた。医療奉仕の準備をしながら、研究とオルガンの演奏活動はつづけられるのではないか、と……。
 7年あれば、学問においても音楽においても、人が一生かけてやりとげるだけの仕事をすることができるはずだ。健康と能力には恵まれている。名誉心や立身出世などには関心がない。気になるのは医療奉仕をつづけるための金銭問題だ。でも、彼は楽観的だった。意思さえあれば、かならず道が拓ける!
 アルベルトがヨーロッパにとどまることを願っていたヴィドール先生は、数人の仲間と「パリ・バッハ協会」を設立し、アルベルトをその専属オルガニストに据えた。これはヨーロッパ一、いや、世界一のオルガン協会だ。アルベルトは演奏旅行を存分に楽しんだのだった。
 しかし、毎日の生活はきびしかった。人の3倍も4倍も働くためには、効率的に時間を割りふらなくてはならない。今日は神学、明日は説教、そのつぎはオルガン演奏、さらに執筆活動。寝る時間がない。医学の勉強だけでも大変なのに……。それなのに彼は、1年後には『イエス伝研究史』を出版。3年後にはフランス語版を書き改めたドイツ語版『バッハ』の大著を出版。医学を学びながら、大学での講義の準備、教会での説教、パイプオルガンの演奏旅行など、寝るのは3時間だけという生活がつづいた。
 厳しくも楽しい7年間の鍛錬は実を結んだ。彼は37歳で医学博士になった。さらに熱帯医学を学ぶため、パリに出向いた。アフリカ行きはどんどん近づいてきた。生きがいでもあった大学講師と聖ニコライ教会の副牧師を辞職しなければならなかった。
「7年間、君は寝る時間を惜しんでがんばりとおした。君の意欲と健康が君を支えてくれたのだ。すばらしい。感服する。君の事業の成功を祈ろう」
 医学部の教授は、こういってアルベルトを祝福し、エールを送った。そのころには、彼のアフリカ行きに反対する人はいなかった。大反対していたヴィドール先生すら、彼の信仰的信念に打たれ、いつしか応援しはじめていた。アフリカでの医療活動には多額の資金が必要だ。資金集めの先頭に立ったヴィドール先生の心意気に応じ、多くの人が寄付を申し出た。
 同僚である大学教授の娘、ヘレーネ・ブレスラウと結婚したのは、学びが一段落したその年の6月のことだった。アルベルトより3歳年下のヘレーネは、アルベルトの心をよく理解して陰から彼を支え、医者の妻としてアフリカに行くために、看護師の資格をとっていた。
 準備はととのった。心配していた医療器具もそろい、医薬品も多量に寄付された。待ちに待ったアフリカ行きだ。1913年3月、38歳の早春、彼はヘレーネ夫人とともに船で暗黒大陸に向かった。2週間の船旅である。21歳のときの奉仕の決断が実ろうとしている。アルベルトはアフリカに思いをはせていた。そこで待ち受けていたのは、はたして……?
(2020年5月10日付763号)