予定論をめぐる神と人間の関係

連載・カイロで考えたイスラム(26)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

全ては神の予定
 イスラム教では「終末にはイエスが再び来られる」とされている。十字架死したイエスが再びやってくるというのだ。コーランの43章61節に「本当にかれ(イーサー=イエス)は、(審判の)時の印の一つである。だからその(時)については、疑ってはならない。そしてわれに従え。これこそ正しい道である」とあり、その説明文(下欄の注23)には「これは最後の日の審判の直前における、イーサーの再来に関して記されているものと理解される」とある。「そのときかれは、かれの名で行われている虚偽の教理を破棄して、唯一神の平和と福音、クルアーンの正しい道、イスラームの世界的受け入れのために道を整えるであろう」ともある。
 そもそもイスラム教では、預言者のイエスが十字架に架けられるなど悲惨な運命をたどることはあり得ないとして、十字架を否定している。この問題は別に論議するとしても、イエスの再来信仰があるのは事実だ。イスラム教専門の学校で学び外交官になったあるエジプト人女性は、イスラム教の伝統的な解釈によればイエスは終末に再び現れることになっている、と証言している。
 もう一つの問題は、現世よりも来世を強調するあまり、現世を軽視し、自爆テロなどに利用されることもある。「イスラム国(IS)」は、子供たちにコーラン以外の勉強を禁じ、聖戦士や自爆要員として育て上げている。
 英国でも、フランスでも、米国でも、ベルギーでも、ISで訓練を受けたり、その思想に感化されたりした者たちによる自爆テロが起こされている。
 イスラム教徒が信じなければならない6つの信仰箇条の最後は、神の予定を信じることだ。神の予定はイスラム神学の主要な論争点の一つで、その理解は一様でない。コーランの章句自体にも矛盾がある。
 全てが神の予定であり、人間に一切の責任がないとする一方、悪が神から出るはずがないとすると、悪の発生は人間に責任があるとして、予定に関する一定の責任が人間にあるとの考えが浮上し、各種学説が乱立しているのが現状だ。
 全てを神が計画されたとの論理の長所は、不幸なことが起こっても、それは神が予定されていたことだからとあきらめ、不満が爆発することがない点だ。為政者にとっては実に都合が良く、反抗は起こらず、治世は安定する。
 イスラム神学の最高峰とされるガザーリは、その大書『宗教諸学の蘇生』の第1巻で「いかなる人のいかなる所業といえども、それが全く彼自身の個人的利害のためになされたにしても、それは神の意志から独立してあり得るものはない。ただ一度のまばたきも、ふと心をかすめ去る幻影のごとき思想も、悉く、神の叡慮と力と希望と意志とによらざるはない」(井筒俊彦著『イスラム思想史』中公文庫、36ページ)と言っている。
 「善悪、利害、知識、無智を初め、人が正しいイスラム信仰に入るのも、また異端の教えに迷って身を滅ぼすのも、皆、偏に神の意志によるのである。悲しみも喜びも、楽しみも苦しみも、神がそれを欲し、それを意思するが故にあり得るのであって、人間は何一つ、自分の意志で自由に出来るものをもたない」ということだ。そこでは 人間は完全に自由意思を否定されている。
 このような思想は、コーランの至る所に見出され、例えば、第33章36節に、信仰に関して「欲する者は神の途を選ぶ。しかし神が欲さぬ限り、何人も欲することはできない」と言われ、「イスラムの信仰に入る者を見ては、あたかもその人自身が進んで神の途を選んだようにも見えるが、実は、神の途を選ぼうという気持ちが起こることが既に神によって定められているのだ、というのである」。ビザンチン章40には「アッラーこそは、あなた方を創り、扶養され、次いで死なせ、更に甦らせられる方である……」とある。
 全てが神の予定だとする考え方の短所は、正邪などに対する判断基準が曖昧になり、批判精神が削がれ、投げやりで無責任な行動が正当化されがちなことだ。
 エジプトで相手に時間厳守を求めることは至難の業だ。彼らには、時間厳守や約束を守ることに対して「インシャー・アッラー(神の願いならばそうなるでしょう。でも願いでなければそうならないかも)」の感覚があり、約束を守らなくても、時間を守らなくても平気で、謝ることもせず、談笑を開始するのには驚いた。悪く言えば、全ての行動が神が決めるのであるから、神の御心ならばそうなるでしょう(時間通りに来るでしょう)し、御心でなければそうはならないのだから、という、ある意味では無責任で、極論すれば、人間の行動の全ては神次第なのだから、自分がそれを守ろうとする努力はなんら必要ないということになってしまう。
 人間には責任分担があるとする考え方の長所は、行動に責任を持つようになることだ。それが人間の質を向上させ、文化・文明の発展にも貢献してきた。悪行を自分の責任として痛感するところから、悔い改めの祈りや行いが生まれる。

人間にも責任がある
 コーランには、人間の責任が強調されている章句もたくさんある。例えば、18章28節には「真理は主の下し給うところ、しかし、信じたいものは信じ、背きたいものは背くがよい」、4章81節には「汝にふりかかる幸運は、全てアッラーの授け給うたもの、汝にふりかかる災難は全て汝自身から来る」とある。
 さらに有名な章句は7章7節で「アッラーがどうして悪を命じたりなさろうか」とある。これらの章句を考え合わせれば、神の道に進むも進まぬも、ただ人間の意志に委ねられていると思える。人間の為すことは、いかなることでも自分の意志で行うのであり、善行、悪行いずれにせよ人間はそれを実行する瞬間まで、為すか、為さぬかの選択権を持っているという思想になる。この思想こそ、アッバス朝の前期にイスラム世界を席巻したムアタズィラの前身たるカダル派の中心的思想である。
 この考え方の短所は、日常茶飯事の悪行の数々は勿論、為政者など人々の上に立つ指導者の行動をも批判することが正当化されることから、世の中が騒々しくなりやすいことだ。疑いや猜疑心の拡大が憎悪や復讐心を煽ることにもなる。神への感謝を忘れ、自己を正当化して保身を図らざるを得ないなどの場面も出てこよう。
 人間に責任があると主張するあまり、人間の行動に完全性を求め、信仰的行動を取れないものは不信仰者だと裁き、不信仰者は、神への反逆者だから殺害しても構わないというような極端な考えにもなる。
 このような考えは、初期には、初めて分派となったワハリージュ派などに見られたが、ハンバル派に受け継がれ、現代ではサウジアラビアの建国の中心的理念となったワッハーブ派に受け継がれている。この系譜がイスラム過激派の源流とされ、国際テロ組織アルカイダや「イスラム国」、穏健派を装いながらも、実質はイスラム法の施行を強く求めるムスリム同胞団などに受け継がれ、全世界で残虐なテロが繰り返されているのだ。
 イスラム教は本来、どちらが正しい考え方であるのかを整理し、歴史的な論争に終止符を打つべきだろう。それなくして、イスラム教徒を正しく導くことが出来ないばかりか、誤った考え方を放置すると、多大の犠牲を生みかねないからだ。イスラム指導者には、解決に向け歩み始めることを願う。(2020年5月10日付763号)