里山を守る暮らし

2020年3月10日付

 『日本列島回復論』(新潮選書)を書いた井上岳一氏は、学生時代、林学で下北半島のマタギの研究をし、林野庁に入って地方分権に伴う林業政策に携わったが、資本主義社会で置き去りにされる山村を変えることはできず、国政に限界を感じて民間の日本総合研究所に転じている。
 転機になったのは東日本大震災被災地のボランティアで、都市部の復興が遅れる一方、山間部では女性たちが生糸などの伝統産業で地域を元気にしていた。「自治と互助の力で、誰も置き去りにしない社会が息づいていた」のに感銘した井上氏は、田中角栄の『日本列島改造論』に対抗して同書を書き上げたという。

生き方が問われる
 日本料理のつまものビジネスで成功した徳島県上勝町を訪ねた井上氏を案内した若者は「サラリーマンとして東京で暮らしていた時より自分のことを大きく感じる」と語ったという。地域や人とのつながり感がそうさせるのだろう。その意味では都会暮らしのほうが、人間的には貧しい。
 スタンフォード大学のベンチャーからシリコンバレーが発展したように、山形県鶴岡市が誘致した慶應義塾大学のタウンキャンパスと先端生命科学研究所から東京マザーズに上場したベンチャーが生まれ、コマツが創業地の石川県小松市への本社機能Uターンを進めているなどの傾向を、井上氏は「内に向かう進化」と呼ぶ。恵まれた自然や人のいる環境でこそ、独創性が育まれると。
 全国を歩いた井上氏は、里山など人手が入った自然を守るため力を尽くしている人に多く出会う。自分がやめれば、すぐに自然に呑み込まれてしまうのは分かっていても、何かのために黙々と続けている。そして「国や会社に頼れず、家族にも限界がある中で、古来、この列島に暮らしてきた人々の足場となってきた郷土、とりわけ山水郷こそがこれからの日本人が引き受け、足場とすべきものだと思う」と言う。日本人としてどんな生き方をするか、問われているのはその覚悟である。
 環境省は、里山ではなく里地里山という言葉を使う。自然と都市との中間にあり、集落とそれを取り巻く二次林、混在する農地、ため池、草原などで構成される地域で、農林業に伴うさまざま人間の活動を通じて環境が形成・維持されてきた。多様な生物の生息・生育環境としてだけでなく、食料や木材などの自然資源、懐かしい景観、文化の伝承の観点からも重要な地域である。
 化石燃料や化学肥料が普及する前は、里地の農民は里山の柴や下草を肥料にし、雑木を燃料に使っていた。さらにキノコやクリなどの楽しみもあり、カブトムシを取るなど子供たちの遊び場になっていた。
 しかし、里地里山の多くは人口減少や高齢化、産業構造の変化により、里山林や野草地の利用を通じた自然資源の循環が減り、美しい景観や生物多様性も失われつつある。
 里海について、環境省は「人間の手で陸域と沿岸域が一体的・総合的に管理されることにより、物質循環機能が適切に維持され、高い生産性と生物多様性の保全が図られるとともに、人々の暮らしや伝統文化と深く関わり、人と自然が共生する沿岸海域」と定義している。
 例えば、沿岸部でのカキ養殖は、周辺のプランクトン発生を促し、魚も増えるようなっているという。人工の漁礁と同じ効果である。

健康長寿のために
 里地・里山・里海の中で、最も荒廃し、今の経済社会の中で回復が困難とされているのが里山である。上述の井上氏も、現代における用語「里山」の生みの親とされる四手井綱英京都大学名誉教授も、明快な解決策は示していない。ただ、両者に共通しているのは、地域の事情に合わせた小さな取り組みの集積しかないということである。
 その小さな取り組みを始める人がどれだけ増えるのかが、これからの課題であろう。農水省などの補助金制度も活用しながら、定年後の健康長寿の生き方として里山回復に努める人がいてもいい。
 その先に国土の、日本的宗教風土の回復があると考えれば、経験や知識、資産を投入するだけの価値は、間違いなくある。

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