古代東日本に見るペルシアの足跡

須藤 研 東京大学生産技術研究所名誉教授(専門は世界の地震活動)

『常陸国風土記』を俺流に読む

 2016年、平城宮跡から出土した8世紀の木簡から「破斯清通」というペルシア人の役人がいたことがわかった。飛鳥の猿石や酒船石、橿原市の益田岩船などから古代ペルシアとの関係が指摘され、密教の護摩焚きはゾロアスター教(拝火教)の影響とされる。須藤研氏は独自の調査で東日本にも古代ペルシアの足跡があることを発見した。『常陸国風土記』を手掛かりに、古代ペルシアと東日本の形成をひもとく。「俺流」とは、須藤氏が敬愛する秋田県生まれの落合博満氏にちなむ表現である。(1月28日、東京で開かれた、にっぽん文明研究所後援の講演会より)

須藤研氏

原文を読み解く
 私の古代史研究は、万葉集、古事記、日本書紀、続日本紀、風土記の原典を解説本に頼らず、原文を可能な限り忠実に解釈することから始まる。それは、プロ野球中日球団監督を務めた落合博満氏の発想法に倣った。参考にしたのは、日本書紀の読み方に革命を齎した森博達(ひろたつ)京都産業大学教授、白山信仰研究・前田速夫氏、古代史家の古田武彦氏、古代ペルシア学者・伊藤義教京都大学名誉教授、『扶桑国王蘇我一族の真実―飛鳥ゾロアスター教伝来秘史』の著者・渡辺豊和氏(建築家)・元京都工芸芸術大学教授等の研究である。
 万葉集第一巻一歌「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母」の「山跡」は「ヤマト」と解釈されてきた。しかし、そのまま読むと「山という場所の跡」である。この解釈が新たな古代日本列島像に拡がる。
 「美篭母乳」は古代ペルシア語の音に漢字を当てたもので、「胸の大きな女性」、「布久」は「茸」を意味し、「布久思」は男性器だ。「押奈戸手」に言語学者は困惑していた。押(おし)と奈戸(なべ)に分け、前者は古代ペルシア語で「勇敢な」を意味し、「おしろ」の「ろ」がとれた「葦」、「押」などに転化する。「お」を省いた「しろ」は、白山信仰の由来である。「なべて」は「若者」を意味する。
 この歌は「豊かな胸の女性たち、立派な一物をぶら下げた男たちが畑仕事をしている。この場所こそ今はない「ヤマ国」(邪馬台国のこと)の跡地なのだ。そして、元気な若者たちが酒を飲んで団欒している」という意味になる。これが原典文字の忠実な解読が描き出す風景である。

鹿島とは何か
 万葉集の初期歌群では わずかに巻一・二十三歌に「カシマ」らしき表現が「荷四間」として現れる。しかし、後世の知識人は(現代の古代史学者も)、これを「鹿嶋」とは読み取らない。日本書紀・天武四年紀に「一子流血鹿嶋」なる表現があるが、その地を現在の茨城県・鹿嶋界隈とは考えない。このように古代史から鹿島は無視される。
 鹿島は中臣氏の出身地と鹿島神宮の神職らが語り伝えてきたが、信頼できる資料はない。「カシマ」は、常陸国風土記では「香島」と記され、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮)に基づくと説明されている。
 鹿島神宮の境内東方にある要石は、地震を起こす地中の大鯰を押さえつけている霊石として信仰されてきた。興味を抱いた水戸藩主徳川光圀公にまつわる言い伝えもある(『水戸黄門仁徳録』)。拝殿の裏には直径80センチほどの円形の鏡石があり、磐境の一種との見方もあるが、詳しいことは分からない(矢作幸雄元鹿島神宮宮司著『つくば神社』学生社刊による)。
 宝物館の悪路王の首像・首桶は、蝦夷の悪路王の首と首桶と伝えられている。悪路王は平安時代に坂上田村麻呂が征伐した蝦夷指導者のアテルイのことで、京で処刑されたアテルイの首が飛んできたという言い伝えがある。「悪路」は「アシロ」と音すべきで、その古代ペルシア語の意味は上で書いた。アテルイの出自は古代ペルシアからの渡来民であった。

シリウス星方位
 秋田県出身の渡辺豊和氏は長く東国古代史の調査研究を進め、政財界の有力者を会長に招聘し立した「イワクラ(磐座)学会」の事務局長として古代史の普及に努めてきた。歴代の会長には小泉内閣で財務大臣を務めた故塩川正十郎氏がいる。渡辺氏は和歌山県田辺市の「龍神村民体育館」で日本建築学会賞作品賞を受賞した著名な建築家でもあり、氏の調査・研究の対象の一つが全国の主な神社境内配置である。
 鹿島神宮は大鳥居から参道を東に進み、南に直角に曲がった先に拝殿がある。拝殿の向かう方角は南北軸から左に20度傾いており、これは香取神宮拝殿の配置と同じである。出雲大社や白山比咩神社の参道も同様に傾いている。
 渡辺氏がその調査から発見したのがシリウス星方位である。神社拝殿や参道、古墳の向きは①南北または東西、②夏至または冬至の日出入方位、③シリウス星方位、④逆シリウス方位の4つに分類されるという。④の代表例が岡山市にある造山(つくりやま)古墳である。しかし、渡辺氏の発見は、法隆寺の創建について聖徳太子の怨霊・鎮魂説を唱えた梅原猛氏と同じように学界では無視されている。古代史学界は「素人言説」の無視をしてきた。もっとも、昨今「素人歴史愛好家」の説を真面目に検討すべきとの雰囲気が歴史学者の間に醸成されつつあるとも聞く。
 常陸国三大古社の鹿島神宮、吉田神社(水戸市)、国譲りに従わなかった星神香香背男を討伐し、その地を平定したという建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀る静神社(那珂市)はそれぞれ常陸国一の宮、三の宮、二の宮で、それら三社が直線上に並ぶ。その北の延長線上に茨城県の最高峰、標高千メートル余の八溝山(やみぞさん)がある。この山は金を産し、採れた金が遣唐使経費に充てられたと続日本後紀にある。
 古代の史跡が一線上に並ぶ事例は歴史愛好家の興味を引き、週刊ポスト2012年1月27日号には、メキシコのテオティワカン、エジプトのギザ、ペルーのマチュピチュ、イースター島、中国の西安など世界の巨石文明を結ぶ線が特集されている。「QED」シリーズの小説家・高田崇史氏も多くの神社が直線状に並んでいることを書いているが、この類の議論は注意を要する。
 地球は球体なので、平面地図上で直線であっても、それらを結ぶ線が球面上でも最短距離になるとは限らないからだ。球面上では大円(great circle、国際便の空路)である。球面三角法による厳密計算は、常陸国三大古社の位置関係がほぼ大円上にあることを示す。八溝山の山頂から鹿嶋までの距離は114キロあり、古代人と言えども目視で測るのは不可能で、鏡を使って逐次的ステップを踏んだと思われる。堅破山(たつわれさん)山頂(日立市・高萩市)にある鏡岩(太刀割石)かもしれない。切断面を磨き鏡として使ったと想像できる。鹿島神宮には鏡石がある。
 シリウス星はおおいぬ座の恒星で、地球上から見える最も明るい星であり、恒星なので天空に静止している。一方、地球の公転軌道は年々少しずつ変化し、おまけに自転の回転軸も揺らいでいる(章動)ので、地球上から見るシリウス星の天空上の位置は少しずつずれて見える。
 シリウス星の天空上の位置を天体力学的手法で算出した。具体的には1510年前の夏至の日に八溝山の山頂から見えるシリウス星の天空上の軌跡を30分ごとに計算した。結果は、真夜中0時でのシリウス星の見える方角が東から74度西と算出された。これは、上で得た三大古社の配列方向とほぼ同じである。
 現在シリウス星は夏至日の真夜中には東38度南に輝いている。1500年間に74─38=36度時計の針の回る方向とは反対方向にゆっくりとずれてきたことがわかる。これは、シリウス方位が古代歴史遺構の築造年代推定に使えることを示している。
 古代遺構の年代決定には、①出土物の様式変遷による層序法、②樹木年輪測定と気候変動、③炭素原子の放射性同位体残留量の3つが用いられてきたが、新たに4つ目としてシリウス星方位変化が有効且つ精度も高い。シリウス星方位の年変化と、算出される三古社の方位からそれぞれの古社の位置に陣屋などの建造物を設営した時代を推定すると鹿島神社は西暦530年頃、吉田神社523年頃、静神社485年頃となる。起点の八溝山山頂には464年頃に観測拠点が設営されたのだろう。

崇神天皇=天武天皇
 常陸国風土記・香島郡の条は、美麻貴天皇(風土記の漢字表現)が香島郡に鎮座する天つ大神の社に供え物をしたと書く。日本書紀編年に従えば、この天皇の即位は紀元前97年とあるから、鹿島陣営設営の600年近く大昔となってしまうが、この矛盾を常陸国風土記が解いてくれる。
 持統天皇は実子の草壁皇子に皇位を継がせるため、天武天皇の第三子・大津皇子(母は持統天皇の姉に当たる天智天皇皇女の大田皇女)を謀反のかどで自害させた。草壁皇子の幼名は日並子皇子(ひなみしのみこ)である。一方、常陸国風土記・新治郡の条は崇神天皇が息子の「比奈良珠命(ひならすのみこと)」を遣わしたと書く。「日並子皇子」(日本書紀)は「ひならし」と読め、風土記が書く「比奈良珠命」(ひならす)と同一人物であることがわかる。
 天皇による常陸国への侵攻が、草壁皇子の死去直前とすれば、それは7世紀末頃となる。父の崇神天皇は天武天皇と同一人物となり、天武天皇の和風諡号からも窺えるがここでは詳述しない。日本書紀が編纂されたのは西暦720年であるから、美麻貴天皇による常陸国侵攻は、藤原不比等にとってはまさに現代史編纂上での重要な一コマであった。渡来民を核として常陸国に盤踞した「蝦夷」を征討した美麻貴天皇は後日「御肇國天皇」なる栄誉を受ける。とするならば、奈良の政治勢力による日本列島統治が完成したのは7世紀末から8世紀初めということになる。渡来民による鹿嶋陣屋設営が6世紀半ばとの推定とも整合する。
 三古社の陣屋設営年代から、常陸国の歴史は北から南へと進んだことがわかる。日本の古代文化は南から北に進んでいったとは古代史の通説だが、北から南に進んだ一族もいたことを暗示している。日本人のY染色体DNAの系統を調べると、大陸から日本列島に至るのに、①南方から台湾、沖縄を経由、②朝鮮半島を経由、③シベリアから樺太、北海道を経由する、大きく3つのグループがあった。常陸国風土記に記された一族は、北方から渡来したのであろう。それを、常陸国の北辺に位置する磐瀬国界隈で検証した。
 福島県須賀川市とその西方(長沼地区)には、鉾衝神社、神炊館(かみおたきあげ)神社、岩淵神社、松塚神社が底角30度の二等辺三角形を形成し底辺の中線がシリウス星の方向になっている。神炊はアイヌ語のカムイで、鉾衝神社の裏には亀居山がある。岩淵神社のブチはアイヌ語で「賢い老婆」を意味し、アイヌ人と渡来人が融合したことを想像させる。須賀川市は北緯37度にあり、太陽は真東から30度北の方角から昇る。30度は60度、45度と並んでコンパスと定規で作成できる古来より特別な角度である。シリウス星方位変化によれば、その設計は4世紀末で、八溝山に観測拠点を設ける以前となる。
 白河藩士の広瀬蒙斎(もうさい)が松平定信の命でまとめた『白河風土記』は、稗田阿礼が東北人であると書く。この人物は、名前の由来は古代ペルシア語のラテン文字表記で「呪い」を意味する「farye」で、ゾロアスター教の神官であったと考えている。奈良の征服者に囚われた後、東北地方の渡来民に関わる事象・治世を彼らに語ったのだろう。日枝神社の日枝は「ヒエダ」と読め、圧倒的に東北に多い。

宋書倭国伝が書く倭の五王「興王」
 常陸国風土記は、鹿嶋を「香嶋」と表記する。万葉集第一巻十三歌「高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相〈挌〉良思吉」の冒頭の「高山」には「かぐやま」と仮名が付される。「カグ」または「カガ」なる表現が日本書紀・神代紀(下)に登場する。それは「香香背男」である。
 「於是、二神、誅諸不順鬼神等、一云『二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。』果以復命。」とある。征服者の神が日本列島を駆け回り、いろいろな神を屈服させたが、従わない神がいた。その名を星神香香背男耳という。
 第九段一書第二には「一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰『天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。』是時、齋主神、號齋之大人、此神今在于東國檝取之地也。」とあり、天に悪い神がいて、その名が天津甕星、またの名が天香香背男だという。その「香香」(カガ)は「高」の別表記で、この神は星を信じていた。古代史研究者は北斗信仰の北極星というが、私はシリウス星と考える。
 「香」島は「高」島であった。「高」一族が東日本で威を張っており、その威は九州にまで及んだ。各地に「鹿児島」「加賀」、宮津の「籠神社」など「鹿嶋」の地名が残っていて、その威勢がしのばれる。この「高」こそが、倭の五王「興王」(宋書倭国伝の表記)であろうと考える。息子は「武王」である。
 神代紀が語る「香香背男」は5世紀に活躍した「興王」の末裔であり、奈良の軍勢に残虐に殲滅された。反逆する敗残者を鎮圧後、鎮魂するための儀式が最初に挙行されたのが「東國檝取之地」(現在の千葉県香取)である。反逆は呪いの形態もとったところから「怨霊信仰」が生まれた。聖徳太子信仰がそれであり、梅原氏はその暗闇を解き明かした。

日本国は2つあった
 シリウス星方位から推定される歴史事象発生時(年)は、古代史の常識と整合しないことの事例は多い。美麻貴天皇の活動時期が7世紀末であるとの本論の結論はその一つである。
 日本書紀・推古紀、舒明紀は隋に一切触れておらず、唐に置き換えられている。古代史家は、隋を唐と書き間違えたと解釈するが、実相は、景行天皇の実像を隠したかったからである。
 隋書倭国伝は「開皇二十年(600)、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。……王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。」と書く。
 倭王の名前は古代ペルシア語で読むと「阿毎」(アメ)は「火、明」を意味し、「多利」(タリ)は「照、輝」である。太子に付される「多弗利」(タフリ)は「稚、子供」を意味する。ついでながらその名「為利歌」は意味不明であるが「イリカ」と音するなら蘇我入鹿を連想させる。景行天皇は「蘇我馬子」であるのか?なぞと想像が膨らむ。それはともかく、倭王一族は古代ペルシアからの渡来民で、その渡来民が日本列島で倭国を政治的に代表していたことになる。
 さて、その倭国王が記紀にそのまま登場している。景行紀の冒頭の一節を隋書倭国伝に重ねてみた。日本書紀は「大(王)足(多利思)彦忍代別天皇 景行天皇、稚(多弗利)足彦天皇 成務天皇」と書く。まさに隋書そのままである。記紀編纂の元締めである藤原不比等は隋国の存在をはっきりと認識していた。興味深いことに、日本国神道の原点「天照大神」なる呼称が隋書倭国伝の倭王の名前に由来していることがわかる。「阿毎」(あめ)が「天」に置き換わっただけである。伊勢神宮の内宮拝殿の千木は祀られている神が男神であることを示しているというが、その由来がここに見える。
 隋書倭国伝には、倭国の民が渡来人の国であったことを示唆する表現「竹斯」がある。ちなみに「波斯」はペルシアである。遣隋使が持参した国書の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」なる文言が物議を醸した。東北にあった「日出る国(扶桑国)」と九州にあった「日没する国(耶麻連邦)」はどちらも倭国で、東西の倭国の首長間での挨拶がそのまま隋への挨拶文になったとすれば、決して非礼な呼称ではない。この東西二つの領域を支配する倭国に挟まれて、葦原中国(大和、先祖は讃、珍)があった。葦原中国は「倭」国を「蝦夷」と呼び、「倭国」を壊滅させる過程で自らを「日本国」と名乗ったのである。これが旧唐書に記載される日本国内の「二つの国」の真実である。
 
稲荷信仰、筑箪、サカ族、夜刀神など
 常陸国風土記は古代史情報満載である。稲荷信仰の原点が筑波山の中腹にある飯名神社であり、アイヌの家庭内守り神である「イナウ」に発している。「イナウ」はやがて家庭内の「神棚」に転化した。また筑波郡の条から、渡来族が斥候を派遣し、地勢を探った形跡が読み取れる。
 伊藤義教京都大学名誉教授は、古代ペルシアにいた三つの「サカ」族、すなわち「カスピ海の向こうのサカ」「尖がり帽子」「ハウマ信仰」のサカ族が日本に来たという。「サカ」は「スカ」または「スガ」に転じ、「須賀川」はそれに由来する。
 渡辺豊和氏はこのサカ族こそが蘇我一族であるとしている。千葉県芝山町の芝山古墳から尖がり帽子の埴輪が出土し、顔つきや髪から日本列島土着の民とは思えない。常陸国行方郡では非常に激しい戦争があり、夜刀神(やとのかみ)率いる渡来民が殲滅された。彼らの出自はイラン中部のゾロアスター教の中心地ヤズドである。
(2020年2月10日付760号)

 すどう・けん 1943年生まれ。東京大学理学部物理学科・地球物理課程卒業、同大学院博士課程修了。理学博士。北海道大学、建設省建築研究所、ソ連地球物理研究所、国連ジュネーブ事務所などを経て東大生産技術研究所・国際災害工学国際災害軽減工学研究センター長(教授)を歴任。国際地震防災イニシアティブ・理事、国連包括的核実験禁止条約機構課長(ウイーン)など兼任し、2005年に退官。著書は『世界の変動帯』(分担執筆、岩波書店)『地震の事典』(分担執筆、朝倉書店)など。