法然(4)/父の死は法然出家の後?
岡山宗教散歩(4)
郷土史研究家 山田良三
去る1月、哲学者の梅原猛氏が93歳で亡くなられました。私が読んだ法然上人についての本の中で一番惹かれたのが梅原氏の『法然の哀しみ』でした。梅原氏はこの本の「伝記が語る法然像」の項の中で、代表的法然伝として知られる「四十八巻伝」(法然上人絵伝)とは全く異なる事実を語る「醍醐本」に着目しています。
醍醐本とは、大正6年に真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・三宝院で発見された『法然上人伝記』で、著者は鎌倉時代前期の浄土宗の僧・源智。法然が晩年最も信頼し、財産の管理も任せ、入滅時まで寄り添わせていた弟子で、平家の遺児ともいわれます。「一枚起請文」を法然に乞い、授かったのも源智です。梅原氏は「親鸞の『歎異抄』に比すべき『醍醐本』」とこの醍醐本を高く評価しています。
梅原氏は、浄土宗・三田全信師の『成立史的法然上人諸伝の研究』を取り上げています。三田師はその研究の中で、(醍醐本は)「潤色の少ない稀な好記録集である」「法然諸伝の根幹をなしている」と 醍醐本の価値を評しています。梅原氏は「法然伝の比較研究はこの三田氏の研究でほぼ大成したと思う」と評価し、「三田師の説にもとづいて、法然の人間像を考えてみよう」と、醍醐本ほかの法然伝を比較研究した三田師の研究を参考にして法然の人間像に迫っていくと記しています。
これまで法然出家の経緯は、「四十八巻伝」などによれば法然が9歳の時、預所(あづかりどころ)・明石定明の夜襲を受け、亡くなった押領使の父漆間時国の遺言「敵に仕返しをして罪業を繰り返さず、出家して菩提を弔ってほしい」に従い、叔父の観覚が住職の菩提寺で修行を始めたというものでした。預所は荘園の管理人で、押領使は警察のようなものです。
ところが醍醐本の記述は異なっています。菩提寺で修行していた法然は、その才を見込んだ観覚の勧めで叡山に登ることになり、その出立の際に父・時国が「私は殺されるかもしれないが、その時には菩提を弔ってくれ」と告げたと記述されています。そして叡山に登ったその年(久安三年)の暮れに、父の訃報が叡山の法然のもとに知らされたのです。この知らせを聞いた法然が、遁世しようと師の叡空に申し出たところ、「遁世するにしても無知ではよくない。天台三大部を学んでからにしなさい」と諭され、そこから本格的修道が始まったと醍醐本には記されています。つまり、父の死期が異なっているのです。
梅原氏は法然が日本の宗教史に残る大改革を実現するまでの思考や心の軌跡を紐解いています。「私日記」以降「四十八巻伝」に至る法然上人伝は誕生の奇瑞などを様々に描いて法然を聖人化、「法然を遠ざける過度の聖人像」として描いています。物語としては面白いのですが、事実かどうかはわかりません。これらの法然伝は浄土宗が形成され、宗団の拡大が図られていた時代に書かれた伝記です。自分たちの宗祖を聖人として崇めることは、教団の維持発展のために必要なことだったのでしょう。常識を超えた逸話で開祖を崇め奉るのはどの宗派でもありがちなことです。ただ宗教家とその教えを深く理解するためには、フィクションを取り除き、現実に生きる人間としての苦悩や哀しみをどう克服していったのかという事実を知ることが重要です。
私は、何度か同好の仲間と法然上人の史跡を巡ってきました。昨年11月、紅葉の時期に「法然上人縁の大銀杏巡り」をしてきました。大銀杏とそれにまつわる逸話は、少年時代の法然が生家と菩提寺を往復した経路を推測させるものでした。誕生寺の大銀杏は、菩提寺からの帰路、杖にしてきた銀杏の枝を刺したものです。菩提寺の大銀杏は、阿弥陀堂の銀杏の枝を「学問成就」を祈願して刺したもので、出雲井の大銀杏は弁当の箸を刺すと芽が出たという伝承です。
出雲井の大銀杏のある現在の勝央町河原は、久米南町の誕生寺から31キロ、徒歩で6時間半、少年の足だと8時間くらいでしょう。朝早く生家を出て昼頃着き、ここで弁当を食べたと想像できます。ここから阿弥陀堂を経由して菩提寺までの距離が12キロ、高低差400メートルほどで、少年の足でも4時間、夕刻には着いたでしょう。
私は11歳の頃、友達と児島半島で一番高い金甲山という山まで歩いたことを思い出しました。片道20余キロ、高さ403メートルで、往復すれば誕生寺から菩提寺までとほぼ同じです。朝出て、お昼くらいに山に着いて弁当を食べて帰りました。
少年時代の法然がたどった道筋を自分の少年時代と重ねて見てみると、法然は9歳の時に父が死に、その遺言で菩提寺に行き出家したというよりは、父に「叔父さんの寺で学問をして来なさい」と言われて菩提寺に学問の手ほどきを受けに行っていたというイメージが自然に湧いてきました。
(2019年3月10日付749号掲載)