ムハンマド死後の正統カリフ時代

カイロで考えたイスラム(7)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 今回からは預言者ムハンマドの死後、イスラム世界はどのような経路をたどり、後継者を決め、制度を作り、維持、発展したのか順を追って見ていくことにする。
 六三二年に没したムハンマドは後継者を指名していなかったことから、残された人々は後継者の選定をはじめ多くの困惑に直面した。中には、ムハンマドの死は神からの啓示の停止を意味するから、今までの啓示を正しく解釈できるのかという不安も押し寄せていたとされる。
 最大の懸案であった後継者には、かなりの激論の後、一番古いイスラム教徒(ムハンマドの近親を除く初期の入信者)で、人望も厚く、ムハンマドとのつながりの確かな、ムハンマドの妻アイーシャの父、アブ・バクルが選出された。アブ・バクルは娘のアイーシャが九歳の時、当時五十六歳だったムハンマドに嫁がせたため、ムハンマドの義理の父ながら、年齢はムハンマドより三歳若かった。
 後継者は「カリフ」と呼ばれ、代理人という意味だが、「ムハンマドの代理人」を意味し、「神の代理人」ではないとされた。渥美堅持氏は、カリフは王ではなく、イスラム世界における法解釈者のまとめ役、議長、世話人的な存在で、そこには「最高指揮官はあくまで神である」ことを前提に考えるイスラム教の性格が表現されている、と指摘している。
 アブ・バクルがカリフの務めを果たしたのは六三二年から六三四年までのわずか二年で、イスラム教の勢力拡大に貢献したが、病のために亡くなった。カリフ在任中に彼が強調したのは、「ムハンマドは死に、蘇ることはない」「ムハンマドは神ではなく、人間の息子であり、崇拝の対象ではない」ということだったとされる。
 かつてムハンマドに忠誠を誓っていたアラブ諸族の中には、忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブ・バクルに忠誠を示さない勢力もあったが、アブ・バクルはこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した。六三二年から六三三年のリッダ戦争は、ムハンマドの死後、バラバラになったイスラム教集団を、アブ・バクルが再び一つにまとめるための戦いだったとされる。
 アブ・バクルはイスラム勢力拡大のため、ササン朝ペルシャや東ローマ帝国とも交戦したが、それにはムスリム共同体の結束を強める狙いもあったという。
 アブ・バクルは、スンニ派では理想的なカリフの一人と賞賛されているが、シーア派では、本来預言者ムハンマドの後継者であるべきアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある。
 第二代カリフには、ムハンマドの妻ハフサの父であるウマル・イブン・ハッターブが、アブ・バクルの指名により就任し、在位六三四~六四四年。ウマルもムハンマドの義理の父でクライシュ族だった。
 ウマルは、若い頃は血気盛んな勇士で、クライシュ族の伝統的信仰を守る立場から、ムハンマドの布教活動を迫害していたが、妹が唱えたコーランの章句に心動かされイスラムの信仰を持つようになったという。武勇に優れた彼が入信したことからクライシュ族は彼を恐れ、迫害を弱めたとされる。
 武勇に自信があったためか、約十年の在位期間中に、ウマルはアブ・バクルの征服活動を継承し、アラビア半島域外に軍を進め、範囲を拡大した。本田實信氏の『イスラム世界の発展』を引用しながら説明すると、ウマルは、ビザンチン帝国からはシャーム地方と呼ばれた現代のシリアやレバノン、パレスチナ地方を六三六年に獲得、抵抗していたエルサレムも六三八年、降伏させた。ダマスカスを含めたシリア全土が六四〇年までにイスラム軍の手に墜ちた。
 イラクに侵攻したアラブ軍は、ササン朝の都クテシフォンを占領し、更にイラン高原に進撃、ニハーヴァンドの戦いでペルシャ軍に勝利し、ティグリス川以西を勢力下におさめた。ササン朝ペルシャ帝国は六四二年に滅亡する。
 イスラム軍の一部はビザンチン帝国支配下にあったエジプトに向かい、六四一年、アレキサンドリアを陥落させ、現在のエジプトの首都カイロの南にあったビザンチンの城バビロンを包囲した上で陥落させた。六四二年、イスラム軍は、この城の東側にフスタードという名の軍営都市(ミスル)を建設、ここを拠点に、ビザンチン帝国領だった北アフリカ方面にも遠征し、リビアを席巻、まさに破竹の勢いで征服地を拡大した。
 ウマルは異文化・異民族との接触により生ずる各種信仰問題の解決にも奔走した。ウマルはイスラム教徒の結束を固めるために、イスラム紀元のヒジュラ暦を制定したが、私怨によりペルシャ人奴隷に暗殺された。
 第三代カリフは、クライシュ族の長老六人の選挙人により、ウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーンが選出され就任した。ウスマーン(在位六四四~六五六)は、ムハンマドの娘二人と結婚した人物で、彼の出身のウマイヤ家は、クライシュ族の中の有力な家だが、イスラム教初期の頃、ムハンマドに激しく反抗していた。しかしウスマーンは、初期の頃からムハンマドに従った古い友だった。
 ウスマーンも征服を継続、東地中海ではムスリム海軍が活躍し始め、六四九年にキプロス島を占領し、アフガニスタン西部や北はコーカサス方面まで支配した。
 ウスマーンはコーランの読誦に長けたムハンマドの直弟子七人の一人とされ、彼の功績の一つは写本の完成である。彼は、初代カリフ、アブ・バクルの時に編纂されたコーランの写本を不完全だと主張し、新たに編纂委員会を設け、再調査の上、六五〇年に最終的な「コーランの写本」を完成させた。写本は四冊作られ、コーランの基本になったとされる。
 彼は十二年間カリフの地位にあったが、ウマイヤ家の人々を偏重して登用し、不満を持つ騎士団により八十二歳で暗殺された。
 第四代カリフには、第三代のウスマーンを暗殺した反乱騎士団に推戴されたアリー・イブン・アブ・ターリブ(在位六五六~六六一)が就任した。アリーはムハンマドの従弟で古い教友、ムハンマドの娘ファティマの婿であった。
 しかし、アリーはクライシュ族全体をまとめる力に欠けていたようだ。彼に反抗したクライシュ族の有力者ズバイルとタルハに合流したムハンマドの若き未亡人アイーシャの三者連合軍をバスラ付近で打ち破り(六五六年のラクダの戦い)、メディナに代えてクーファを首都とし、イラクを勢力下に置いたが、シリアには及ばなかった。シリアではウマイヤ家のムアーウィヤがアミール(総督)として実権を握っており、アリーとの対決姿勢を貫いていたからだ。
 双方の対決と折衝が続く中、アリー軍のハワーリジュ派が、アリーがムアーウィヤと調停を始めたことに反発し、コーランの規定に違反していると糾弾、六六一年にアリーを暗殺した。ハワーリジュ派は、教義解釈の相違に基づくイスラムの最初の分裂とされる。
 イスラム史では、第三代カリフのウスマーンの暗殺から第四代カリフ、アリーの暗殺までを第一次内乱と呼んでいる。四人のカリフは、後世のイスラム史家により「正統カリフ」と称された。四人は皆ムハンマドの教友で姻戚関係にあり、ムハンマドのことをよく知っていた。
 アリーの暗殺を契機に成立したのがウマイヤ朝で、これを認めた多数派がスンニ派の起源になり、アリーを支持した少数派がシーア派となった。
(2018年8月5・20日付742号)