忘れるべきことと記憶すべきこと

2018年3月5日 732号

 昨年、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏が、二〇一五年に発表した十年ぶりの長編小説が『忘れられた巨人』。五〜六世紀のブリテン島で、ブリトン人を率いてサクソン人を撃退したアーサー王の死後が舞台である。ブリトン人とサクソン人は一見、平和に暮らしているようだが、人々は少し前に起きたことさえ記憶しておけないことに苦しんでいた。それは龍の吐く息が、人々の記憶を保てなくしているからだった。
 ファンタジーのような小説は、龍を殺せば過去を思い出すことができるが、そうなれば、今は一緒に住んでいる民族が敵であることを思い出し、再び戦争になってしまう。そんな事態に至らないよう、龍を守るべきか、それとも殺すべきかを問う設定になっている。

憎しみは消えないが
 ノーベル賞授賞式後のNHKテレビのインタビューで、イシグロ氏は小説の執筆動機を次のように語っていた。
 東西冷戦が終結して、平和な時代が訪れると信じていたが、一九九〇年代、ユーゴスラビアで戦争が勃発し、一緒に暮らしていた民族同士が、過去の憎しみを忘れず、傷つけ合う姿に大きなショックを受けた。そこで、「人はどんなことは記憶し、どういうことは忘れるのか。そして社会や国家はどんなことを記憶にとどめ、いかなることは忘れようとするのか」を問おうと考えた。
 記憶と忘却を国に当てはめると、国家は社会が分裂し、内戦に陥るのを避けるために、過去を忘れなければならないことがある。世界中で内戦や暴力の連鎖が起きているのは、過去に起きたことを忘れられないからだ。時には忘れることも必要で、そうしないと、大きな恐怖や不正に対処する安心した民主主義社会を築くことができないだろう。
 あらゆる社会に忘れられた巨人がいる。今のアメリカには自立という巨人がいて国を分断させている。多くの人は、日本が第二次世界大戦の記憶を忘れていると非難し、それが日本と東南アジア諸国や中国との間に緊張を引き起こすことがあるが、戦後の日本は軍国主義のファシズム社会から、近代的で自由な民主主義国家に移行するのに成功したモデルと言えよう。
 微妙な問題だが、日本は二度の原爆投下のために、自分たちは被害者だと考える方が楽なのかもしれない。しかし、そんな期間があったから、日本社会は堅固な民主主義を築くことができた。今、アメリカもヨーロッパも不確かな中で、日本は比較的に安定して、強固な民主主義国家であり続けている。日本のようなよい社会を築けるかどうかは、それが正義ではなくても、負の過去を忘れることにかかっているのかもしれない。
 話を個人に戻すと、健康長寿の鍵を握る一つが睡眠だとされている。眠っている間も脳は働き続けて、記憶の整理をしている。忘れるべきことと忘れてはいけないこととを仕分けし、それぞれの箱に入れているのである。忘れたからといって消えてしまうわけではない。その記憶に耐えられるほど健康になってから、思い出すためである。
 民族や国家にも同様なことは、確かに言えよう。正義を振りかざした革命が起きても、理想通りの国が築けるかどうかは、戦った人々が、いかにその記憶を忘れるかにかかっている。明治維新後の日本も同じで、藩閥政治の弊害はあったが、旧幕臣も新政府に採用され、また別の分野で活躍することができた。世界史で、そうした事例は稀であろう。もっとも、これを近隣諸国との間に適用するのは、手前勝手のそしりを受けよう。

競い合い成長する
 大切なのは、互いに競い合いながら、より高みを目指し、努力することである。与野党にしても、相手の失点狙いではなく、共に成長することである。競い合うライバルの存在が、素晴らしい成果を上げることを、先の平昌オリンピックも示してくれた。
 宗教の良質な部分は、人の成長を促す仕組みにある。それも、心を解放し、自分の意思で成長するようにする力である。歴史的には、そんな宗教の力が統治に利用されることもあったが、それは本来の道ではない。異なる文化、歴史の人たちが、協力し合える社会を築くためにこそ、宗教の力は発揮されるべきだろう。