バビロニア占星術が妙見信仰に

連載・神仏習合の日本宗教史(10)
宗教研究家 杉山正樹

古代バビロニアの占星術

 太古より天体星辰は生活の道しるべであった。古代バビロニアでは、天体の動きから人間社会の吉凶禍福を読み解く占星術が発達し、これが東西世界に伝播した。インドに渡った占星術は、ヒンズー教の世界観を取り込み、インド占星術として独自の発展を遂げる。これが仏教との融合により、『宿曜経』としてまとめられ中国に伝えられた。
  古代中国において、天は地上世界の写しだと考えられた。皇帝は、地上世界の支配のみならず、天を読み解く力が必要とされた。民衆の抱く天への畏敬の念を、自らの身に仮託し地上を支配する力の源泉として天文を用いたのである。『易経』繫辞伝に「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る」とあるのは、この所以である。
 道教においては、北の空の中天に輝く北極星を、天帝・天皇大帝と見なした。他の星座が一昼夜で一周するのに対し、北極星はその位置を変えない。『論語』為政第二に「政をなすに徳を以てせば、誓えば北辰のその処に居て、衆星これを共むが如し」とある。常に天の北極を示す北極星は、その周りを他の星々が巡ることから、天体の中心として考えられ「北辰」の名で崇拝された。この「北辰」に伴走するように北天を巡行する北斗七星は「北斗真君」として尊ばれ、両者は調和と均衡の尊格で神格化され菩薩の称号を与えられる。これが妙見信仰の始まりとなった。

星田妙見宮の織女石

 妙見信仰は、日本に渡り天之御中主神と習合する。『古事記』に「天地初めて発(ひら)けし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神」とあるのは、万物創造の根源的な御働きからであろうか。ただし妙見菩薩は、明治期の神仏分離政策で天之御中主神に改められる。『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』は、「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見と曰ふ。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特なり、故に名づけて妙見と曰ふ。」と記す。欽明天皇15年、百済より易博士と暦博士らが来朝、白鳳時代に至り朝廷においても陰陽思想と星宿への関心が非常に高まった。
 妙見菩薩は、「妙(たえ)に見(あらわす)」という読み解きから、善悪や真理をよく見通す、翻って盗難・紛失物を見出す、あるいは眼病の神としても信仰された。『日本霊異記』には、妙見菩薩が航海の神として尊崇されたことが記されている。その折、法燈を献ずる習わしが生まれた。天皇は毎年3月3日に北辰に法燈を献じ、これが「御燈」の始まりとなる。
 民間でもこれを真似て星祭を行うようになったが、次第に熱狂色を帯び職を捨て業を忘れ、僧俗・男女が入り乱れて風紀を乱すようになった。遂には「北辰を祭るを禁ず」という勅令が下され、祭りは途絶え朝廷の御燈行事も廃止されてしまう。一方、真言密教の寺々では、星曼荼羅を本尊として北斗法を修し、徐災・福徳・延命を祈願するようになる。
 一度衰えた北辰信仰であったが、日蓮宗が興ると再び盛んになり、国々で競って妙見堂が建立された。とりわけ武士階級は、熱心にこれを信仰した。妙見が北斗七菩薩を率いて武運を守るとされていたためである。その後、北辰・北斗は、実に多様な形態で祀られ信仰される。今日、国内各地の寺社で妙見信仰の名残に触れることができるが、民衆に深く馴染み浸透した信仰であることが窺われる。
 埼玉県の秩父神社は、初代の知知夫国造である知知夫彦命が、祖神の八意思兼命を祀ったことに始まる。中世になると妙見信仰と習合し、秩父に居を構えた武士・平良文による働きにより「秩父大宮妙見宮」として栄えた。
 平将門と平国香が戦った上野国染谷川の合戦では、国香に加勢した平良文に妙見菩薩が示現し、将門の軍勢を打ち破ったという。秩父に土着した良文の子孫は、秩父平氏と呼ばれる武士団を形成するが、長きにわたり妙見菩薩を信仰するようになった。晩年、下総国に居を移した良文の子孫が、妙見菩薩を奉斎し創建したのが千葉神社である。
 関西では、弘法大師の開基とされる大阪府交野市・星田妙見宮がつとに知られ、古くから伝統的な七夕祭祀が行われてきた。北極は、地球の歳差運動により2万5800年周期で移動する。このため1万3000年前の北極星は琴座のベガであったとされる。不思議なことに御神体である磐座は、織女石と呼ばれている。宇宙の本体は完璧な美である。調和と均衡を本願とする妙見信仰は、全ての星々の営みを私たちに紡いでいるかのようである。
(2023年2月10日付 796号)