『武士道(Bushido:The Soul of Japan)』新渡戸稲造(1862〜1933年)

連載・文学でたどる日本の近現代(31)
在米文芸評論家 伊藤武司

日本人の精神世界
 数か月前、アメリカ人から「You,re a Japanese Samurai !」と言われ驚いた。これも2003年上映の「Kill Bill」やトム・クルーズの「The LastSamurai」の影響ではないか。ひところ、日本といえばゴジラやゲイシャが定番であったが、いつのまにか和食ブームに乗ってsukiyaki、sushi、nori、wagyu、bento、sake、shabu-shabu、umamiなどの言葉から、manga、judo、ninja、karate、sayonara、karaoke、kimono、otaku、bonsai、kawaiiに至るまで、日本のポップカルチャーや多様な言葉・文化や日本の企業名がアメリカ社会に浸透している。
 さて、西洋の列強の勢力が圧倒的であった明治期、シナやインドや日本など東洋諸国に対する欧米の偏見は想像を絶した。内村鑑三はアメリカのキリスト教リバイバル集会の場で見世物のような扱いを受けたという。そうした西洋を驚かせたのが日本の躍進だった。
 眠れる獅子と言われた清国との戦争に日本が勝ったのは明治28年。10年後の日露戦争勃発で日本は大国ロシアにも勝ち、未知の島国が欧米世界にクローズアップされることになった。戦争前後には、日本人による英語原文の三冊の名著が発刊された。『茶の本(The Book of Tea)』で岡倉天心は日本人の美的意識や価値観を紹介し、内村鑑三は『代表的日本人(Represent Men of Japan)』で西郷や日蓮など5人の偉人を紹介した。そして日本人の精神世界を解き明かしたのが新渡戸稲造の『武士道(Bushido)』である。
 新渡戸は文久2年(1862)南部藩勘定奉行の三男・六人兄妹の末っ子として誕生。自著の『思い出』『人生読本』によると、武士の子のしつけや四書五経の素読や剣術の稽古のかたわら、開明的な賢母と家庭環境の中で西洋への憧憬心をふくらませた。10歳で叔父・太田家の養子として上京。東京英語学校(後の旧制一校)で勉強しながらキリスト教や聖書に関心を抱く。
 札幌農学校(現・北海道大学)に入学したとき、西郷隆盛を盟主とした西南戦争はまだ終息していなかった。内村鑑三、宮部金吾らとキリスト教的な学生生活を送り、洗礼を受け札幌バンドを形成。東大へ入学するも中退しアメリカへ私費留学。霊性体験を重んじるクエーカーの集会に参加、会員になって信仰を深め、将来の伴侶となる女性と出会う。その後ドイツに官費留学し、米独の6年間で農政学や農業経済学、統計学等を研鑚し、哲学博士号を授与された。
 英文原書の初版本は1899年にロンドンとフィラデルフィアで刊行、以降十数か国の言語に翻訳された。邦訳は翌年に上梓、幾人もの訳者により続けられている。文章は流麗な筆致の格調高い文体で、イギリスの文学者が高く評価し、矢内原忠雄訳が1938年に発刊した邦訳版は古典的な定本となった。
 時代劇にはサムライが登場し、子供から大人まで、マンガやアニメでサムライに慣れ親しんできたので、日本人の心の片隅にサムライ的残痕があるといえなくもない。しかし、その精神や原理を問われると、はたして答えられるだろうか。新渡戸も、ベルギーの高名な法学者から同様の質問を受け、当惑してしまったのである。
 序文の一節に「私が少年時代学んだ道徳の教えは、学校で教えられたのではなかった。私は私の正邪善悪の観念を形成して居る各種の要素の分析を始めてから、之等の観念を、私の鼻腔に吹き込んだものは、武士道であることを、ようやく見出したのである」とある。
 大まかに言えば、儒教や仏教や神道の良質なエキスを摂取した精神が、武士の時代700年で形成された武士道と言えよう。鈴木大拙は『日本的霊性』で、鎌倉時代の武士の間に日本人特有の心のあり様が芽生え、これが民族全体に浸透したとする。禅と法然・親鸞の浄土思想の融合した精神を「日本的霊性」と命名した。フランスの高名な人類学者で日本学者のモーリス・パンゲは、『自死の日本史』で武士の切腹の思想を起点に、秀逸な日本人論を書いている。
 新渡戸が36歳で執筆した『武士道』は学術的な研究成果や、切腹の原理を指南したものではない。日本語版が出ると、思想家の井上哲次郎ら一部の識者から反論が出た。しかし、新渡戸自身が南部藩の武家の出であることは何にもまして重い意味をもっている。5歳の時、一族の見守る中、袴をつけ定紋入りの短刀を帯びる儀式により、明治5年に廃刀令が発令されるまでの2年間、武士の血を引き継いで生きた人なのだ。
 同書は新渡戸の目に映った武士的生活や「尚武の精神」を外国人がわかるように紹介したものと解せ、彼自身、武士のよき精神を体現した人格者で、武士的心性が人格に溶けこんでいた。
 新渡戸の人生の軌跡には研究者、教育者、国際政治家の三本の柱がある。学究者としての第一歩は農学で、ドイツの大学への学位論文、日本最初の農史『日本土地制度論』に結実。続く『農業本論』はとりわけ名著とされ、遠大な構想による農業思想全般と日本農民の倫理性の昂進を提唱し、日本初の農学博士号を取得した。その要点は、農業を商業・工業などの生産活動の土台に据え、農業の機能やはたすべき使命を考究している。その後、40歳で台湾総督府殖産局に任官。技師として農業振興に多大な貢献をし製糖業を一大産業に育て上げ、植民政策の研究論文を作成し法学博士の学位を受けた。

世界的ロングセラー
 17章からなる原著『武士道』には冒頭、英国ビクトリア朝の詩人ロバート・ブラウニングの詩が掲げられ、「武士の掟」や精神、「武人階級の身分に伴う義務」に関する観念・価値観が「武士道の立つ礎石」として述べられている。
 第一に「義・JUSTICE」をもって「武士の掟中もっとも厳格なる教訓」としている。この義を遂行するためには「勇・COURAGE」が必要となるが、無鉄砲に「死の顎に飛び込む」ことが勇気の証ではない。「生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の有」ととらえ、「義と勇とは双生児の兄弟…ともに武徳」である。
 次に挙げた項目は「古来最高の徳」としての「仁・BENEVOLENCE」。仁は「愛、寛容、愛情、同情、憐憫など」の性状をもち、人間の属性の中で最も高貴な「王者の徳」、女性的な「柔和なる徳」であると形容。また「武士の情」に触れ「武士はその有する武力、ならびにこれを実行に移す特権を誇りとしたが、同時に孟子の説きし仁の力に対し全き同意を表した」と説く。
 順次「礼儀・POLITENESS」「正直・VERACITY」「名誉・HONOUR」「忠義・LOYALTY」「切腹・hara-kiri」「刀・SWORD」といったトピックスを簡潔・明解に表記し、著名人の言葉やエピソードをそえている。武士道の精神には、中世ヨーロッパ世界の「騎士道・Chivalry」とキリスト教間にあった強力な紐帯はないが、それに代わるものとして仏教・禅・神道、儒教や「孔孟の書」など「聖賢の古書」の養分が基盤に配されている。武士階級の道徳体系は、これらの「徳目」により形成されているのだと主張する。
 また「知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われる時においてのみ、真に知識となる」という道理から、武士道は王陽明の「知行合一」、知識と実践の一体化を理想としたと説き、武士の掟や道徳を頼朝、義経、弁慶、信玄、謙信、信長、秀吉、家康、宮本武蔵、太田道灌、赤穂義士、上杉鷹山、林子平らで裏づけた。
 欧米の読者を意識して聖書の字句の引用もあるが、「比較論は興味あることではあるが…これに立ち入ることは本書の目的ではない」と記す。
 この小著には、西洋古今の思想家・文化人・芸術家等70人以上が搭載されている。マルクス、レッシング、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、プラトン、ゲーテ、ハックスレー(イギリスの生物学者)、ソクラテス、ダンテ、デカルト、フィヒテ、ニーチェ、モンテスキュー、シェークスピア、ビスマルク、アダム・スミス、カーライル、ベートーヴェン、ナポレオンらに言及する博識ぶりである。
 こうして新渡戸の学識の高さ、内省的なクエーカー教徒であること、かつアカデミックなバックグラウンドが欧米圏の人々の心をつかんだ。さらに、二度の歴史的戦争を経た日本に寄せる関心の高まりが、同書を世界的なロングセラーにしたといえる。「世界のニトベ」として知られるようになり、読者には日露戦争の調停役をしたアメリカのルーズベルト大統領、トーマス・エジソン、ケネディ大統領、最近では台湾の李登輝元総統や俳優のトム・クルーズがいる。

太平洋の橋とならん
 あるアメリカ人は、日本人の精神のコンセプトやエピソードを限られたスペースに目いっぱい詰めこんだ情熱に感嘆したという。本書から70年を経て、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』、土居健郎『甘えの構造』、陳舜臣『日本人と中国人』、李御寧『「縮み」志向の日本人』など比較文化論や日本人論ブームが到来した。
 新渡戸は当時には珍しい国際結婚で、しかも恋愛であった。フィラデルフィアのクエーカーの集会で出会ったメアリー・エルキントンは、名門家庭の聡明な令嬢。二人は結婚を願うが、新渡戸の養父は国際結婚に反対で、メアリー家も不同意。7年間の交流の末、30歳で結婚にこぎつけた最大の要件は、宗教観の一致と支え合う愛情である。アメリカで挙式後帰国、札幌農学校の教授のかたわら、夫妻同伴で寺子屋式の夜学校を設け、貧しい子供たちの人間教育に無給で献身した。
 幼児期・青年期にはきかん坊で喧嘩早く、短気一徹だった新渡戸の性格も、結婚し、年齢を重ねることで穏やかで柔和・円満な人格者へと変わった。
 59歳の時、多彩な人脈を生かして世界平和に貢献すべく国際連盟事務次長に就任。英語を自由にこなす雄弁家の新渡戸は哲学者ベルグソンらの知遇を得て、辞任までの7年を世界人として過ごした。しかし、アメリカで排日移民法が成立し、日米関係に暗雲が広がる中、生涯最大の危機に直面する。
 教育界に情熱を注いだ新渡戸の志は高く、青年の人格教育のために各種学校の経営にあたり、京都大学、東京大学の教壇にたった。大学にゼミナール式の授業を取り入れたのも新渡戸が最初である。第一高等学校では民主的な人格主義の学風の構築に務め、薫陶をうけた学生たちには内村の無教会につながった矢内原忠雄がいる。一高の生徒たちの尊敬を集め、矢内原は『余の尊敬する人物』に人徳高潔な人柄を詳述している。また女子教育の必要性を早くから発言し、キリスト教主義の東京女子大初代学長を務めた。
 新渡戸の記念館は二つあり、一つは青森県十和田市に1965年に建設された新渡戸記念館。かつて三本木原と言われた不毛の地を開拓したのが祖父で、その歴史的資料や稲造の遺品などが展示されている。91年には岩手県花巻市にも新渡戸記念館が創立した。
 「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」と緒言につづった新渡戸は、消えゆく運命にある武士道の「武徳」や「誇り」や「情操」や「名誉」を心から惜しみつつ評論を結んでいる。「武士道は一つの独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。…その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。…しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」と。
 新渡戸は1933年、滞在先のカナダ・ビクトリアで病に倒れ、夫人に見守られながら71歳で客死。墓は多摩霊園にある。姉妹都市になった盛岡市とビクトリア市には、国際人新渡戸の生涯の理想「願わくはわれ太平洋の橋とならん」の記念碑がある。
(2022年10月10日付 792号)

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