源田実 真珠湾攻撃の英雄

連載・愛国者の肖像(2)
ジャーナリスト 石井康博

 

源田 実

 源田実は明治37年(1904)8月16日、広島県山県郡加計町(現:安芸太田町)で生まれた。大正13年に海軍兵学校を卒業し、昭和3年、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。翌年首席で卒業し、以後生涯にわたって戦闘機乗りとして活躍した。霞ヶ浦航空隊分隊長、横須賀航空隊分隊長などを歴任し、戦闘機の空戦性能の研究などに取り組み、それまでの大艦巨砲主義を批判し、航空主兵論を唱えた。
 昭和12年に勃発した第二次上海事変に第2連合航空隊司令部参謀として参加し、「制空隊」によって制空権を獲得するなどの戦果を上げる。同年、海軍大学校を卒業。昭和14年には駐在武官として英国に赴任し、翌年8月からのバトル・オブ・ブリテンを体験した。10月に帰国、英国やドイツの戦闘機の性能などを報告している。
 昭和15年11月に中佐に昇進し、第一航空戦隊参謀となった源田は翌年2月、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に呼ばれ、日米開戦の際に想定される作戦、ハワイ方面にいる米国艦隊の主力への飛行機隊による奇襲作戦の研究を命ぜられた。奇襲であるからには裏をかかなければならない。太平洋の北方を通る経路は海が荒くシケが多く、アメリカ海軍も演習をしていないという。源義経の鵯越えのように、北方航路からハワイを奇襲する必要があると考えた。
 懸念材料であったハワイの浅海用の魚雷の改造も無事に済み、11月23日の新嘗祭の日、「赤城」などの空母6隻以下の南雲機動部隊30隻は択捉島、単冠湾に集結。同26日に出撃、北方航路を通りハワイ奇襲へ向かった。12月2日、連合艦隊全艦宛に「ニイタカヤマノボレ1208」という暗号文が届く。攻撃の日を知らせる電文である。暴風雨を乗り越え、予定通り真珠湾の北北東に着いた。
 ハワイ攻撃の前日、源田は旗艦「赤城」にある赤城神社で朝夕「私を殺してこの作戦を成功させてください」と祈ったという。12月8日午前1時(ハワイ時間7日午前5時30分)に偵察機が発進し、攻撃が開始された。零式戦闘機、爆撃機、雷撃機が次々に発艦。午前3時19分に総指揮官・淵田美津雄中佐の九七式艦上攻撃機から「トトトト」(全軍突撃せよ)の電文が発信され、3時22分には「トラトラトラ」(我奇襲に成功せり)が発信された。その後の攻撃も成功し、アメリカの艦隊、飛行機、飛行場に壊滅的な損害を与え、真珠湾攻撃は成功裏に終わり、源田たちは一躍英雄になった。
 日本を凌ぐ圧倒的な工業力を持つアメリカはミッドウェー海戦以降、徐々に攻勢に転じ、日本軍はあらゆる戦線で守勢に立たされていった。昭和19年に、既に大佐に昇進していた源田は日本が敗北を重ねるのは制空権を失ったからだと考え、日本本土を防衛するための特別な部隊、第343海軍航空隊(剣部隊)を設立し、制空権の奪回を目指した。フィリピンから戦闘301、407、701を招集し、12月25日に横須賀基地で開隊。指揮を高めるため、各隊に新選組(301)、天誅組(407)、維新隊(701)などの通称を付けた。
 後に偵察第四航空隊を編入し、歴戦の戦闘機乗りを各隊に配置し、新人を教育しながら、戦闘機隊は局地戦闘機紫電改、紫電を、偵察機隊は艦上偵察機彩雲を装備し、レーダー等、当時最高レベルの情報収集力を備えた情報ネットワークとつなげた。第343海軍航空隊はアメリカ軍から恐れられ、攻撃に当たって警戒されたという。九州沖航空戦、沖縄戦に参加。源田は、機体整備の為、迎撃できず、長崎に原爆が落とされたことを悔やみ、次に原爆をもって現れたら、自らが特攻してB29の原爆投下を阻止するつもりだったといわれている。
 昭和20年8月15日終戦。源田は真意を確かめに中央に向かう。そこで軍司令部部長・富岡定俊少将から皇統護持作戦遂行の命を受けた。その内容は、天皇陛下の命にもしものことがあり、国体に危機が訪れた時、皇統を絶やさぬために、皇族の子弟の一人を所定の場所にかくまうというものだった。源田は第343海軍航空隊の隊員の中から自分と一緒に自決する覚悟のある23名を選び、「死よりも重い任務」と説明しながら、その時が来るまで、復員して潜伏するよう指示を出した。マッカーサー元帥によって天皇制が維持されるようになったことで、この作戦は終了した。富岡少将から源田大佐に作戦の終了が告げられたが、隊員へは徹底されず、長い時を経て昭和56年1月に、東郷神社に集まり、源田から生存者17名に正式に皇統護持作戦の終了が告げられた。
 昭和28年、源田は防衛庁に入庁し、航空幕僚監部装備部長に就任した。日本の国産ジェット機の生産を後押しし、航空自衛隊のパイロット育成に力を注いだ。昭和31年に空将となり、航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任し、昭和34年には第3代航空幕僚長となった。その後、アクロバット飛行チーム、ブルーインパルスを創設し、次期戦闘機の選定に携わるなどの功績を残した。自分で試乗して性能を確かめたり、ミサイルだけに依存せず、機銃の装着にこだわるなど、源田らしい現場主義の仕事ぶりを発揮した。昭和37年には航空自衛隊創設や日米安保への貢献などが評価され、ケネディ大統領よりレジオン・オブ・メリット勲章を受章した。
 同年、当時の防衛庁長官、赤城宗徳の勧めにより、参議院議員選挙に自民党から出馬した。当選し、以後4期24年参議院議員を務める。源田の皇室に対しての姿勢は変わらず、議員としても皇室を護る姿勢を貫いた。防衛に関しては、核の恐ろしさを強く感じ、核燃料サイクルの推進に関わり、核戦力のオプションを議論していた。核を用意できるようにするというもので、当時の自民党の幹部からは否定されていた。現在でも核シェアリングなどは議論の対象になっている。また、集団的自衛権、自衛隊の強化などを訴え、日本の行く末を国会の場で真剣に議論していた。平成元年、84歳で没。
 源田は常に国際情勢を見つめ、時代の流れを読み取る能力に長けていた。その先見性故に誤解を生むこともあったが、生涯にわたり皇室、国に対する忠誠を失うことはなかった。ロシアのウクライナ侵攻や、緊迫した東アジア情勢が日本に暗い影を投げかける中、今こそ源田実のような愛国者が必要なのかもしれない。
(2022年10月10日付 792号)