日吉大社と比叡山延暦寺

連載・神仏習合の日本宗教史(5)
宗教研究家 杉山正樹

西本宮本殿

天台宗と山王神道
 11世紀、神仏習合は最澄と空海の登場で新たな段階を迎えるようになる。延暦7年(788)、最澄は薬師如来を本尊とする草庵・一乗止観院(後の延暦寺根本中堂)を比叡山に建立する。『古事記』にも登場する比叡山は、日枝山(ひえのやま)と記述される霊山で、日吉社が里宮として鎮座し、元来は日枝(比叡)山の地主神・大山咋神を拝祀していた。最澄は入山に際し、大山咋神を「小比叡」、大和三輪山(奈良県桜井市の大神神社)の大物主神を勧請して「大比叡」とし、二柱の神を草庵の守護神とする。二柱はそれぞれ日吉社の東本宮・西本宮の主祭神となるが、その後輸入された天台密教に道教が加わり、この関係性を理論化した『耀天記』『日吉本記』などの経典としてまとめあげられた。
 天台宗の立場から神祇信仰の理論的解釈を進めた結果、「山王神道」と呼ばれる天台神道体系として説かれるようになる。「山」「王」の三本の線とこれを貫く一本の線を天台思想の「三諦即一」と結びつけ、「空・仮・中」の三諦が本来一つであることを「山王」という文字で表現した。神仏習合により、仏教に対する神道という対照概念を析出したということができよう。
 法華経では、教義の全体を迹門(出世した仏が衆生を化導するために本地より迹を垂れた)と本門(釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていた)とに分化するが、これに倣い日本の神々は、本地垂迹という理論で整然と整理されて行く。すなわち、仏が本来の姿=本地であり、日本の神々は、仏が人々を救済するための垂迹=仮の姿となった。
 例えば「大比叡」の大物主神は、釈迦如来が本地であり「小比叡」の大山咋神は、薬師如来となった。日吉社は最終的に、山王七社・中七社・下七社の21社に整備され、その全てに本地仏が定められた。延暦13年(794)、桓武天皇は平安京遷都を行ったが、日吉社が都の表鬼門(北東)にあたることから、魔除・災難除を祈る社として重要視し、鎮護国家・天子本命の道場とした。これは当時既に、建都のデザインに陰陽道の思想が容れられていたことを意味するものである。天台密教は、星辰信仰との関りが強く山王七社は、北斗七星にもなぞらえられている。
 日吉大社の表参道を抜け架橋を渡ると、見事な「山王鳥居」を正面に見据える。鳥居の上部は、笠木の上に合掌を組んで山形に造られており、「合掌鳥居」とも呼ばれている。鳥居をくぐり西進すれば、ほどなくして西本宮の境内である。
 奥に佇む白木作りの端正な社が本殿で国宝に指定されている。切妻造の前と左右に庇をつけ、背面から拝観すると屋根が兜の鉢のように見えることから「日吉造」あるいは「聖帝造」とも呼ばれ、日吉大社でしか見ることができない。
 「山王鳥居」まで一旦戻り、西宮を背にして東進すると大山咋神を祀る東本宮で本殿はやはり国宝に指定されている。大山咋神は、『古事記』にも登場する五穀豊穣の神であるが、京都松尾神社に鎮座して鳴鏑(なりかぶら)をもつ神とされる。別名の「山王権現」は、中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」を仮借したものである。境内には、神代の昔より比叡山に棲む山岳信仰所縁の神々が集合し静謐な空気が流れている。

日吉大社の山王鳥居

王都守護の神
 日吉大社は、全国の日枝神社の総本山。創建は崇神天皇の時代とされる。平安京の守護神として信仰された平安遷都以降、その神徳が全国に知れ渡る。境内ではサルが飼育されており、日吉大社ではサルを神の使いとする。古来より比叡山一帯にはサルが多く、いつしか魔除けの象徴として扱われるようになった。境内の神猿は「魔が去る」「勝る」などの意味から、「まさる」と名づけられている。
 最澄の弟子の慈覚大師・円仁は、天台宗川越喜多院の開祖で、その鎮守として日吉社から大山咋神を勧請し、日枝神社(現在の川越日枝神社)を創建した。その後、江戸城の築城に際し太田道灌が、東都の裏鬼門の守護として川越日枝神社を分祀し、赤坂日枝神社を創建、現在は首都東京の守護神となっている。赤坂日枝神社の正門にも勇壮な「合掌鳥居」が鎮座しており、神仏習合の時代を今に伝えている。
(2022年8月10日付 790号)