危機の時に読む「コへレトの言葉」
2022年3月10日付 785号
コロナ禍の終わりが見えそうになって、ロシアのウクライナ侵攻という世界的な危機が勃発した。常識を超えた暴挙を起こしたプーチン大統領は、どんな考えに駆られたのか。多くの専門家が指摘するなか、正鵠を射ていると思えたのは、ロシア文学・ロシア文化論が専門の亀山郁夫名古屋外国語大学長の説である。
「プーチン氏は、バイデン政権のアメリカがウクライナの問題で強い態度に出てこないと確信し、今がウクライナの欧州接近を決定的に阻止する千載一遇のチャンスと考えた。まったく無謀な賭けだが、プーチン氏にとって、この考えは今や、誤った『救世主的』使命感にまで高まっているように見える」(読売新聞2月26日付)
それでも生きよ
ロシア国内でも反戦運動が高まっているが、選挙によって政権を選択するという民主主義の基本が、イランよりも劣っているというロシアでは、国民の声がプーチン氏を止めることは想像できず、可能性があるのは、側近の反対・離反だろうとされる。亀山氏は次のように続ける。
「ロシア人の心性には、永遠の『神の王国』は歴史の終わりに現れるという黙示録的な願望があり、それが政治の現状に対する無関心を助長している」とし、「ロシア人が時代遅れの古い観念から抜け出し、ウクライナと世界に対して和解の態度を示すことを切に願っている」と結ぶ。
この記事で連想したのは、最近、再放送されたNHKこころの時代の、小友聡東京神学大学教授による「それでも生きる 旧約聖書『コへレトの言葉』」である。「コへレトの言葉」は以前の「伝道の書」で、「空の空、一切は空である」や「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」などの言葉で知られている。
神学校で旧約聖書学を専攻した小友氏が卒論に選んだのが、一番わからない「コへレトの言葉」で、牧師になって8年後にドイツに留学し、試行錯誤の末に見つけたのがダニエル書との関係だったという。紀元前2世紀半ばに成立したダニエル書は、神の啓示により終末の到来を予告し、試練に耐え、禁欲を貫き、救世主の救済にあずかろうと訴えた。これがユダヤ教団に大きな影響を与えた黙示思想である。
これに対して小友氏は、「明らかにコへレトはダニエル書に見られる黙示思想を否定し、これと対論している」と述べる。確かにコへレトは一貫して終末論が嫌いで、「未来のことは誰にも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう」(コへレトの言葉10・14)と語る。「生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである」(同9・4)と、彼岸に望みを託すのではなく、此岸で誠実に生きよと説く。ルターが「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」と言ったとされるように。
苦難の時代に普及し、信者数で最多の浄土宗系仏教も来世主義の傾向が強いが、日本仏教の基本は「今を生きる」で、神道の「中今」の思想と同じ現世主義である。ユダヤ・キリスト教の歴史観にも、現世主義と来世主義の二つの流れがあるそうなので、人類に共通する心性なのかもしれない。重要なのは、今どこに足を据えるかである。
ユダヤ・キリスト教の終末論的救済史観が共産主義の唯物史観に継承されていることは、ロシアの哲学者ベルジャーエフが指摘している。本紙の初代代表・松下正寿は、それを高く評価していた。その文脈で言うと、ソ連は崩壊したが、共産主義はまだ生き続けている。
生存への支援を
今、思いを馳せるべきは、戦火に脅え、難民となって逃れているウクライナの人たちのことだ。生き延びるための支援を、国際社会は一致協力して尽くさなければならない。
同時に心掛けたいのは、一人ひとりがそれぞれの役割を誠実に果たすこと、余力があれば、少しでも人のため、社会のためになるよう実践することである。そうした万人の営みによって、辛くもこの世界は維持できるようになっている。
気を付けたいのは、ネットに溢れる危機を声高に煽る言説である。危機の時にこそ、ダニエルではなく、コへレトの言葉に学びたい。