『たまゆら』『虚構の家』曽野綾子(1931年〜)

連載・文学でたどる日本の近現代(25)
在米文芸評論家 伊藤武司

 ここ数年来、女性の社会進出が大きな話題となっている。「ジェンダー不平等指数」という判定方法もあるが、世界経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ指数」によれば、日本は男女の格差に隔たりがあり世界の下位層、特に政治の世界での女性の参入が貧弱であると判定されている。
 文学界ではどうであろうか。昭和20年代後半、第三の新人と呼ばれる作家グループが誕生。評論家・山本健吉が用いはじめた用語で、『海辺の光景』安岡章太郎、『砂の上の植物群』吉行淳之介、『プールサイド小景』庄野潤三、『沈黙』遠藤周作、『アメリカン・スクール』小島信夫、『雲の墓標』阿川弘之、『海人舟』近藤啓太郎、三浦朱門ら、純文学を主とする新世代の作家たちが出現した。こうした男性陣にまじって登場したのが曽野綾子である。
 1931年6月、東京府南葛飾郡(現・葛飾区)の商家に生まれ、3歳で大田区田園調布に移る。『裾野』などの短篇を同人誌に発表し、大学卒業前に新進作家三浦朱門と結婚。23歳で、54年度の芥川賞に『遠来の客』『硝子の悪戯』が連続して候補に推された。男ばかりの選考委員は若い女性の出現に新鮮さを感じつつも、職業作家としての可能性に一抹の懸念をもったようだ。文壇には、吉村昭・津村節子、高橋和巳・高橋たか子など夫婦が作家というケースがあり、夫の三浦も賞候補になっていた。カトリック信仰、バチカンから勲章授与、芸術院賞や文化功労者に選定と似た者同士の夫婦である。
 2年後には有吉佐和子が芥川賞候補となった。両者は競うように昭和30年代、ジャーナリズムや社会から迎えられ「才女の時代」の主役として人気作家の道を歩む。清新な曽野の映像がテレビに出ると、上品でさわやかな語り口、知性的で都会的育ちの良さからタレント扱いされた。
 曽野は戦争体験者で、惜しくも選外となった短篇『遠来の客たち』は、終戦直後の占領下の話。敗戦で骨抜きにされた男たちにまじって働く、好奇心いっぱいの19歳の波子が主人公。進駐軍接収の箱根のホテルに勤務するアメリカの軍医、軍曹、大尉ら勝者を前に波子は臆することがない。シニカルなタッチの鋭い人物像や、新時代の空気を感じさせる出色の筆力から、曽野の代表作の一つとなった。短篇『バビロンの処女市』は、古代バビロンの結婚の風習にひっかけ現代のお見合いを扱う。
 中編『たまゆら』は28歳で刊行した現代小説。テレビドラマ「たまゆら」の原作は川端康成の短篇『たまゆら』で、曽野のとは別である。内容は、ある母親と息子を見すえながら、女性たちが手玉にとられる悲哀のストーリーで、勾玉の擦れ合うたまゆらの音のような不毛の人間模様が描かれている。
 主人公の敬子はハンサムな清彦に「親近感を覚え」婚約するが、絆は「平行線」のままで深まらない。うわべは誠実を装う清彦は、実は全てに計算高いニヒリスト。過去にとらわれて生きている母親やほかの女たちの人生を狂わせ、敬子にも心を通わせない。しかし、敬子は「この上もなく利己的でこの上もなく高慢な人間」と見抜けず、時を労し裏切られてしまう。突き放したような物語の終わり方も妙だが、表皮からでは窺えない人間の闇の部分を焦点に、独自の意味合いをこめたに違いない。同タイプの76年刊行『木枯しの庭』は、愛を寄せる女性がありながら、母親からの自立も結婚にも踏み切れない男の生き方を抽出した長篇。
 43歳で『虚構の家』が週刊誌に連載され、翌74年に出版され話題となった。家庭内暴力や登校拒否、教育ママなどを素材にした家庭崩壊の物語。日和崎家は、ホテル経営に忙しい省三と妻くに子と子供の夏と基の4人暮らし。一方の呉家も、大学で教育学を教える由一郎と雅子夫婦と受験を控えた博之と高校2年の聖子の4人で、教育熱心なファミリーのイメージ以外は人並みの家庭である。しかし、二家庭の諸相をわが身に置き換えて考えてみると、小説の意味が一変してしまう。
 フィクションなのに、読者の身近でも起こりうる己の問題と気づかされて、様々な感慨にみまわれる。日和崎家の中学生・基は、母のくに子を手こずらせるほど病的な清潔症で、登校を拒む問題児。「学校へ行くなら、死んだ方がいい」とまで口走り、くに子をギクリとさせる。娘の夏は欠食障害らしく喘息もちで学校も休みがち。くに子は腫れものに触るように接する。事なかれ主義の夫は家や子供の事を妻に任せっきりで深入りしない。学校不信に陥った基は、登校拒否と自殺未遂の兆候を示し、くに子は「半狂乱」。「家庭は死んでいるのも同然」となり、転校した基は、ある夜自室のシャワールームで首つり自殺を図り、くに子は鬱になってしまう。
 他方の呉家の雅子は、結婚以来横暴で怒鳴りちらす不機嫌な夫のため「どうぞ、お許し下さい」と言うのが口癖で、睡眠薬なしでは寝付けない。息子の博之は、自室に閉じこもると一日中親と口をきかないことがあり、兄妹間でもめったに話さない。博之は「黙って風呂に入り、黙って食事をする。雅子は喋りかける隙もない」。「この家は下宿屋のようだ」と雅子はつぶやく。やがて、家庭崩壊が始まる。聖子が家を飛び出し、建設現場で働く青年と同棲・懐妊し、他人同然の関係になる。呉夫婦は「心の通じ合わない遠い存在」で、雅子にも悪夢が…。
 作者は『たまゆら』によって人間存在の美しさや明るさに隠された虚像や悪意の仮面をはぎとった。そして悲劇的な家庭の自壊を見つめながら、人間性の真実とはなにかを『虚構の家』で問う。
 一方、明朗な作品もある。『太郎物語』の長篇二部作は、大学で人類学を教える教師となった曽野夫婦の息子の青春ストーリー。高校生の太郎は人生の様々な場面に触れながら成長する。大学編では青春を謳歌する日々を、親子間のおおらかな会話で描き、ドラマ化されて人気を博した。65歳での小説『夢に殉ずる』は、魂の自由を求める中で事故死する主人公の一人語りで、著者の人生観の一端が映されている。
 「好奇心に溢れた性格」を自認する曽野は行動力に溢れ、現場取材は徹底している。67年の長篇『無名碑』では、わざわざ雨期をねらってタイを取材。85年の長篇『湖水誕生』は、長野県高瀬川の地下発電所建設の「土木屋」たちの作業現場に張り着き、臨場感たっぷりに仕上げている。
 単独の取材旅行、また夫婦・文芸仲間とのツアーや使節団にまじって東南アジア、北米、南米、東西ヨーロッパ、南太平洋を訪れ、国際ペンクラブ大会、外国での講演、学術調査、難民キャンプやインドの救ライセンター訪問、障碍者たちとの聖地巡礼、サハラ砂漠縦断と世界をかけめぐる行動力には舌を巻く。
 小説『弥勒』は息子の無念の死を慮る老父と生き残った息子の友人、忌まわしい歴史に呪縛された人間の妄執や屈折した心を搭載。長篇『地を潤す者』の舞台はインドシナの激戦地で、身の覚えのない戦犯容疑で死んだ実弟を弔う感動的なストーリー。小説『午後の微笑』は、戦後、奔放に生きて破滅した女性の物語。『生贄の島』は、戦争末期、渡嘉敷島の凄惨な集団自決の真相を、現地調査で書きあげたノンフイクション。『ある神話の背景』も類似の作品である。
 17歳で受洗した曽野にとって信仰は著作の生命線であり作品を読み解く重要なカギである。長篇小説『奇蹟』、短篇『落葉の声』はアウシュビッツで、死刑囚の身代わりに餓死刑を受けることで他人の生命を救った神父のルポ。取材後、自身の信仰観が変わったと「あとがき」にある。これは、教理で判断するのではなく、清濁合わせた現実を冷静に見つめるという意味であろう。
 元来、曽野は教義にこだわる狭量な信仰者ではない。小説『傷ついた葦』で神父の人間らしい心理をしたため、随筆『部族虐殺』でアフリカ・ルワンダの部族虐殺を告発し、長篇『哀歌』では、その背景にある貧困問題を鋭く洞察している。
 女流文学賞を辞退したことでも注目されたのが80年発刊の『神の汚れた手』で、英訳された。主人公は三浦半島で開院し、堕胎・中絶に手を染めている産婦人科医。堕胎は人間に許された行為なのか、畸形児の始末はなど、新しい生命の誕生のかたわら、目の前の現実に苦悩する医者が描かれ、生きることの大切さ、尊さが心に募る。
 作品で見せる知的なきらめきは、イタリヤやローマの歴史小説『神の代理人』『海の都の物語』『コンスタンティノープルの陥落』の塩野七生の切れ味をイメージさせる。
 小説『砂糖菓子が壊れるとき』は、真実の愛を模索しながらも男たちに捨てられ死を迎える女優の物語。不眠症と睡眠薬で苦しんでいた著者は、旅先でマリリン・モンローが睡眠薬の過剰摂取で死をとげたニュースに接し筆を執ったという。この系列の長篇『天上の青』は、実際に起きた殺人事件を下敷きにした犯罪小説で、英訳された。
 39歳での書き下ろしエッセイ『誰のために愛するか』は大ベストセラーとなった。随筆『夫婦、この不思議な関係』は、男と女の出会いや結婚などを描く。『老いの才覚』では、老いは自然の摂理、老いてなお学ぶことがあると説く。『人間にとって成熟とは何か』では本質的生き方を探り、夫を看取った奮戦記『夫の後始末』もある。『完本・戒老録』は、人生問題の総決算的なメッセージ。ユニークな人生訓や知恵に包まれ、「汚辱にまみれて生きよ」「自殺は、この上ない非礼である」「もらうことばかり要求している人は、どんなに若くても老人である」などに著者の美意識を感じさせる。海外の児童文学の翻訳や子ども向けのキリスト教の創作童話も多い。
 以上の著述歴から分かるように、曽野は自己の視点で世界を直視し、正直・率直に語り、書いてきた。その姿勢が、高みからのポーズだと反感をかうこともあった。保守論客とされたマスコミ批判、時事や政治、歴史問題への発言など臆することがない。遠藤周作がペンクラブ会長の時、作家の立場から会の運営に疑問を抱き脱会している。キリスト教信仰が、逆境でファイトを燃やし、創作の原動力になった。共著『湯布院の月』では「いわれのない非難と闘っている限り、人間は堕落しなくても済みます」と表白している。
 「人間の精神を奥底まで照らし出すためには道具が必要です。私の場合、神と信仰がそのための強力な光になっている」とは『文学の現状』の記述。さらに『私の文学』には、「私は生まれてからこの方、小説書き以外の他のものになりたいと思ったことがない」と、作家業は「天職」と自認し、明晰な使命感で創作してきた。
 NGO関連の仕事で世界各地で人道援助の活動をしてきた。90年以降、日本財団の運営にたずさわり、10余年無給の会長職を務め、日本郵政の社外取締役も務めた。92歳の今日も壮健で対社会的発言をしている。戦後、新人女流作家として文壇に新風を吹きこんだ意味は大きく、社会奉仕に励む自分らしい生き方を黙々と実行してきた誠実な生き方は、人間として見習いたい。(2022年3月10日付 758号)