凝然大徳七百年御忌法要・講演/東大寺

律院と諸宗兼学の意義再考

凝然大徳七百年御忌法要での散華

 奈良市にある華厳宗大本山東大寺(正式名称は金光明四天王護国之寺)金鐘ホールで9月25日、鎌倉時代後期に活躍した東大寺の学僧・凝然大徳(1240─1321)の七百年御忌法要と記念講演があった。凝然大徳はインド・中国・日本の仏教史を広く研究して日本仏教の包括的理解を探究、『八宗綱要』など膨大な著作を残し、新興の鎌倉新仏教に対し、いわゆる鎌倉旧仏教の復興に貢献した。
 祭壇の中央には、飯沼春子・東京藝術大学非常勤講師による凝然大徳の肖像画(鎌倉時代)の模写が祀られていた。法要は狹川普文別當を大導師に、式衆入場、三礼(さんらい)に始まり、唄(ばい)、散華と進み、並行して上記模写肖像画の開眼作法があり、表白で狹川別當が凝然大徳の事績を称えた。読経では、開経偈、『大方廣佛華厳経』入不思議解脱境界普賢行願品偈文、如心偈、廻向文が唱えられ、三礼、式衆退場で終わった。
 参列者は関係者に限られたが、興福寺や唐招提寺など南都六宗の寺の代表者も臨席し、諸宗兼学という凝然大徳の姿勢を偲ばせていた。
 記念講演会で挨拶した狭川華厳宗管長・第223世東大寺別當は、「鎌倉時代の凝然大徳の肖像画は賛が欠落しているので、狹川宗玄・東大寺長老が作成、狹川別當が筆を執った。凝然大徳のお姿は柔らかく、誰をも優しく指導されているようで、今にも出てこられるかのよう。最近、仏教系大学では鎌倉時代の基本テキストであった『八宗綱要』が使われないようだが、この機会にその意義を見直したい」と述べた。
 次いで、永村眞・日本女子大学名誉教授(人間文化研究機構理事・東大寺学術顧問、専門は日本中世仏教史)が「凝然大徳の修学─律院と諸宗兼学─」と題し講演した。
 凝然大徳は仁治元年(1240)伊予国(愛媛県)の高橋郷(今治市)で生まれ、比叡山で菩薩戒を、東大寺戒壇院の円照に師事して通受戒を受けた。全国的にはあまり知られていないが、愛媛県では同県出身で時宗宗祖の一遍上人に次いで有名な宗教人だという。凝然大徳の修学は、華厳を宗性に、律を唐招提寺の証玄に、密教と天台教を聖守に、真言教を木幡観音院の真空に、浄土教学を長西に学び、華厳教学について各所で講義を行った。
 円照の没後、東大寺戒壇院の長老となり、法隆寺や唐招提寺など南都寺院を管轄。後宇多上皇が出家した際には戒師を務めるなど朝廷からも尊崇されていた。
 29歳の若さで著した『八宗綱要』は日本仏教史研究に不可欠の文献で、八宗とは、法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗と天台宗・真言宗の平安二宗のこと。凝然大徳は禅宗・浄土宗の鎌倉二宗を加えると「十宗」になるとし、日本仏教を大きく変革した鎌倉新仏教にも通じていた。
 日本仏教が中国仏教圏から完全に独立し、新たな展開をとげたのは鎌倉新仏教においてだが、鎌倉旧仏教も中国仏教教学とは異なる独自の展開をとげている。その代表例として、『八宗綱要』の訳注(講談社学術文庫)を著した鎌田茂雄東京大名誉教授は、「華厳宗の凝然教学には中国仏教教学とは違う独自な体系が見られる」と述べている。
 質疑応答で永村教授は、明治の宗教政策の大きな問題は「一宗一寺制にしたため、他宗を学ぶ伝統が失われた」と語った。奈良仏教は兼学が基本で、いろいろな大学の学部に学ぶように、僧たちは六宗の寺に通っていた。いわば仏教諸派の比較研究で、それにより自分なりの仏教を究めることができるのである。
 さらに東大寺戒壇院における戒律の復興は仏教自体の復興を促し、教学研究から社会活動まで幅広い影響を及ぼした。凝然大徳の功績はそうした観点からも再評価されるべきであろう。