和気清麻呂

岡山宗教散歩(30)
郷土史研究家 山田良三

和気神社の和気清麻呂像

平安京を造った人
 弓削道鏡事件で皇統を守り、後に桓武天皇のもと平安京造営に携わった和気清麻呂は、秦氏や宇佐八幡宮と深いかかわりがあり、最澄や空海を支援して平安仏教の礎を作るなど多くの業績を遺しました。京都御所西隣の護王神社は和気清麻呂を祀り、狛犬に代わる狛猪が祭神を守護しています。
 清麻呂を肖像にした戦前の十円札紙幣は、裏面に猪が描かれ、「イノシシ」と通称されていました。皇居東北方の平川門近くの清麻呂公銅像は昭和16年、皇紀2600年を記念して建てられた佐藤清蔵作です。
 『日本後記』によれば、和気清麻呂の祖は垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬでしわけのみこと)で、曾孫の弟彦王が、神功皇后に反逆した忍熊王を和気関に攻め滅ぼした功で藤原県(あがた)を与えられ、備前・美作の国造となり、この地方を代表する豪族として栄えました。大化改新までは県主で、以降は郡司となり、和気氏が治めた藤野郷を流れる吉井川から採れる砂鉄や鉄鉱石を使ってたたら鍛冶が盛んで、鉄や銅など金属加工のほか治水などの土木技術に優れ、優れた治世を施し、後に平安京造営に活躍します。さらに宗教や学問にも優れ、日本の学問文化や宗教の発展に貢献しました。
 和気氏が拠点としていたのが、現和気町と吉井川を挟んだ旧熊山町(現赤磐市)の一帯で、和気氏に因む遺跡が数多く遺ります。その南方の山が熊山です。山上には「熊山遺跡」と呼ばれる石積遺跡があり、熊山戒壇とも呼ばれ、その経緯や意義については諸説あり論議されてきました。
 和気郡史の編纂などに取り組んでこられた仙田実氏は、熊山遺跡は和気氏が施主となり秦氏が施工に関わって造られたのではと述べています。岡山歴史研究会顧問で熊山遺跡保存研究会会長の岡野進氏も和気氏と秦氏に関する様々な資料を収集されていて、和気氏と秦氏の密接なつながりを解説しています。熊山の山中や山麓には他にも石積遺跡や炭焼の遺跡のほか、和気氏や秦氏に因むと思われる多くの遺跡が遺っています。
 現在の備前市香登から旧邑久郡(元瀬戸内市)の一帯も和気郡の一部でした。香登には、『続日本紀』に秦大兄が治めたと記録があり、大内神社の摂社に大避神社があることや、現瀬戸内市磯上は、石上(物部)とも関わりがあり、秦氏に因む弓月から来ているという湯杉神社があります。備前刀の長船や、中世の商都福岡も秦氏と関わりのある所です。播磨国赤穂の坂越も秦河勝に因む生島や大避神社など秦氏縁の地です。南朝の忠臣児島高徳が療養したとされる妙見寺や、高徳の墓もあります。千種川では砂鉄が採れました。
 和気氏は備前・美作や播磨西部で広く基盤をもっていた秦氏と密接な関わりがありました。

和気氏と秦氏と熊山
 熊山遺跡の築造には鑑真とその弟子との関りがありました。幾多の艱難を越えて正式な授戒僧として渡来したのが鑑真です。東大寺で授戒をし、その開基とされるのが唐招提寺です。その鑑真を熊山に招請したのが、和気清麻呂の父の藤野別乎麻呂(おまろ)でした。
 伝承によると鑑真は樒(シキミ)の木の香に導かれ、大滝山(福生寺)から熊山に登り霊仙寺を建立したとあります。また近辺には他にも鑑真開基とされる寺院が多くあります。
 岡山歴史研究会会員で歴史研究家の丸谷憲二氏は、唐招提寺の第五代住職豊安に因む地名が邑久町豊安で、四代住職の安如法が、西域の出身者で、出身地にある現タジキスタン共和国のヴァンの石積遺跡が、シルクロードから半島、東南アジア各地にある石積遺跡の中でも一番よく似ていることと、さらに秦氏の出身国弓月国との関係性から、熊山の石積遺跡は、和気氏が施主で、安如法など鑑真の弟子達の指導のもと、秦氏が施工したと推論しています。
 熊山は備前国東部の山岳道場の中心地となり、修験道の道場ともなりました。児島高徳は熊山で挙兵しました。中世以降は神仏混淆の熊山権現として栄え、金光教の開祖金光大神も修行しています。大本教の出口王仁三郎は昭和5年に熊山に登り、熊山戒壇は素戔嗚大神様の御陵であると語っています。

宇佐八幡ご神託事件
 和気清麻呂は天平5年(733)、備前・美作の国造藤野別(和気)乎麻呂(おまろ)の子として生まれ、天平20年(748)16歳で都に出仕します。当時の地方豪族は長男か長女を都に上げて仕えさせていたのです。3歳上の姉の広虫は、采女として都に登り中宮職の葛城戸主に嫁して、後に孝謙天皇に仕えます。天皇が上皇となり出家すると、自らも出家して法均尼と称しました。清麻呂の位階も上がっていきました。
 孝謙天皇は病気平癒に功のあった道鏡を重用していました。女帝が退位し上皇となり、その後重祚し称徳天皇となったところへ、宇佐八幡から「道鏡を皇位に就かしめれば天下悉く治まる」とのご神託の報があったのです。
 そのことを確かめるために勅使が派遣されることとなり、広虫が最初指名されますが、女性に長旅は無理だと、弟の清麻呂が勅使となりました。そうして清麻呂が宇佐八幡に赴き受けた御神託は、「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣をもって君となすこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」というものでした。
 女帝や道鏡の願っているご神託ではない。清麻呂は悩みますが、心を正してみれば答えは明白です。その時の心境を詠んだのが真筆の「我独慙天地(われひとりてんちにはず)」でした。心の定まった清麻呂はご神託をそのまま上奏、女帝は失望、道鏡は怒り、清麻呂の奏上は「偽りの奏上」とされて、清麻呂は大隅、姉の広虫は備後に、清麻呂は穢麻呂、広虫は狭虫と蔑称されて流罪となりました。
 大隅に配流の途上、宇佐八幡に詣でようとするも、清麻呂は足が立たなくなり、そこに300頭の猪が現れ清麻呂を守ります。猪は秦氏の軍団とも言われますが、この伝承から、清麻呂を祀る神社では狛猪が守護することとなりました。
 大隅は鹿児島神宮が本八幡と称されるように秦氏に縁の地で、霧島神宮もあります。旧牧園町(現霧島市)に和気清麻呂を祀る和気神社があります。同社宮司によると、この地で洪水のたびに人柱が捧げられていたのを清麻呂がやめさせたそうです。清麻呂は大和川などの治水事業でも、人柱をやめさせています。

桓武帝のもとで
 2年後に称徳天皇が崩御、道鏡は失脚、清麻呂は都に呼び戻されます。その後、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営事業や、摂津・河内両国の治水事業などに当たり土木官僚としての実力を発揮します。桓武天皇の信任を得た清麻呂は、美作・備前の国造も兼務しました。
 桓武天皇は延暦13年(794)、清麻呂の建議により建設途上の長岡京をあきらめ、山背に京を造営、遷都します。清麻呂は造営大夫として指揮し、現在の京都の区割りや水利を考慮した都の原型を造ります。清麻呂が「平安京を造った人」と呼ばれる所以です。
 広虫は延暦18年(799)の正月に、さらに2月に清麻呂が薨去し、家督は長男の広世が継ぎます。広世は父の事業を弟の真綱、仲世などと継承し、京の造営に加え最澄や空海を支援し仏教の興隆に貢献、天皇の即位や国の重大事には宇佐八幡宮への勅使、宇佐使(うさづかい)を継承します。
 石清水八幡宮は貞観2年(860)、和気氏の氏寺の神願寺が高雄の神護寺に習合されたあとの男山に、宇佐八幡宮から八幡神を勧請したものです。中世には、伊勢神宮とともに二所宗廟となり、国を守る重要な霊廟の役割を果たします。主に学問で身を立てた和気氏は、後に医家となり、姓も半井姓と変え、政治からは離れていきます。
 和気氏は氏寺の神護寺で最澄や空海を保護して平安仏教の基礎を築きます。愛宕神社(白雲寺)愛宕権現は天平年間に役行者と秦氏出自の泰澄によって開かれ、天応元年(781)、和気清麻呂により桑田(現亀岡市)の阿多古神を勧請して王城鎮護の社としたものです。桑田は鉄分の多い赤田に桑を植え、養蚕を行っていた地です。亀岡は現在大本本部(明智光秀の亀山城跡)があり、大本発祥の地綾部も秦氏との深く関わる土地です。綾部はグンゼの発祥地で、美作秦氏の末裔の立石岐が津山にグンゼを誘致したのも何かの縁かもしれません。

和気神社
 和気郡和気町の和気神社は、もとは鐸石別命を祀る和気氏の氏神でしたが天正19年(1591)に、大水で社殿が流されたので現在地に遷座しました。
 社殿下の日笠川をはさんだ芳嵐園は桜の名所で、藤公園には全国から100種類の藤が集められ、毎年春の藤まつりには多くの観光客が訪れ、秋には「もみじまつり」が開催されます。
 境内に立つ和気清麻呂像は、昭和15年に制作され、橿原神宮に石膏像が奉納されていた朝倉文夫の作品を、清麻呂公生誕1250年を記念して寄贈、建立されたものです。右手の和気町立歴史民族資料館には清麻呂公銅像の原型が展示され、清麻呂公真筆の碑「我独慙天地」やさざれ石もあり、清麻呂の精神や業績を学べます。出家し法均尼となった広虫が、藤原仲麻呂の乱の孤児83人を引き取って養ったことから、福祉関係者が多く参拝に来ています。本殿は明治18年、拝殿は明治20年に、当時関西一の大棟梁と言われた宮大工の田淵勝義によって造営されました。
 和気町在住の郷土作家・久井勲さんの『和気清麻呂』(学習社)は、経済・技術的側面からの清麻呂像で、人間模様や時代背景も分かりやすく書かれています。
 「岡山人物銘々伝を語る会」は同書がきっかけで、岡山の呉服商福岡屋の黒田輝一さんの提唱で始まり、郷土の偉人の勉強会を開いています。和気町では清麻呂や広虫の業績を紹介する演劇など顕彰活動をしていて、久井さんも加わっています。
 和気清麻呂は、敬天心篤く神仏を大切にし、その精神で政治を行った人でした。清麻呂の業績を評価しその精神を継承することが、これからの日本にはとても大切です。
(2021年9月10日付 779号)