山室軍平

連載・岡山宗教散歩(28)
郷土史研究家 山田良三

救世軍との出会い
 1878年、メソジスト説教者ウィリアム・ブースにより英国で始まった救世軍が日本に本営を設けたのが明治28年です。救世軍で日本人初の士官となり、さらに東洋人初の将官、日本司令官を務めたのが山室軍平でした。
 救世軍は世界32カ国でその活動を展開、その最後の国が日本で、植村正久牧師が明治21年、ロンドンに5か月間滞在の折、ブースと救世軍のことを見聞し、「福音新報」や「六合雑誌」に掲載、また、ブースの著書『最暗黒の英国と其出路』を紹介して、救世軍のことを知らしめました。
 その記事を読んで感動した一人が、岡山孤児院の創立者石井十次です。石井は宮崎の旧鍋島藩の出身で、医学を志して来岡、キリスト教にふれ、引き取った孤児の養育を生涯の使命と感じ、岡山市門田で孤児教育会を始めていました。その石井が救世軍を知り、孤児育英会を本格的な孤児救世軍に組織しようと決意したのです。
 石井は明治25年、同志社病院に入院中、在米の知人から手に入れたブースの前掲書を、同志社生の山本徳尚に訳させ、山室軍平に筆記させました。
 こうしてブースに深く共鳴した石井は、明治28年、救世軍日本本営が設置されると聞き、ちょうど上京する山室に本営を訪ねるよう頼んだのです。以後、石井は救世軍と深くかかわり、初代司令官のライト大佐と親交を深めます。
 山室軍平は明治5年7月、岡山県哲多郡則安村(現新見市哲多町本郷)に山室佐八、登毛(とも)の三男として生まれます。体が弱い息子のため、母親は卵断ちをして祈願、山室は自伝に母への感謝を記しています。
 当時の県西北部は備中松山藩の影響で学問が盛んでした。家が貧しかった山室は8歳の時、足守(現岡山市北区足守)で、質屋を営んでいた母方の叔父杉本弥太郎の家に養子に入ります。養父の勧めで松浦漢学塾に通い、養父から「経典余師」を学び、漢学の素養がその後の執筆活動に役立ちます。向学心に燃えた軍平は、上京したいと養父に訴えますが許してもらえないため、無断で上京したのが14歳の時、明治19年8月半ばでした。
 東京では築地の活版製造所で働きながら講義録によって独学、明治20年晩秋、工場への途上、福音派教会の路傍伝道に出会い、「福音会」に通いました。数か月通ううちに、教えを理解し、「福音教会」に通うようになり、明治21年の7〜8月のころ受洗し教会員になります。
 同じころ入信した山中孝之助から経済的支援を受け、教会の信者で代用小学校の経営者村上辰二郎の自宅に住み、「福音教会の伝道学校」で学びます。入信後青年会幹事に選ばれた山室は、徳富蘇峰の講演を聞いて新島襄を知り、そのもとで学びたいと思うようになりました。明治22年6月、同志社夏期学校に参加。念願の新島襄に接しましたが、これが最初で最後の出会いでした。
 夏季学校終了後、高梁に伝道に行くという学友たちに、山室は里帰りがてら同行しました。当時、組合派の高梁基督教会は、渡米してキリスト教を学んで来た新島と縁が深く、伝道が活発でした。高梁からの帰路、山室は岡山で孤児救済事業を始めていた石井を訪問、彼の精神と実践に深く感銘、山室は乏しい中20銭を寄付しています。京都に帰り9月に同志社予備学校の正式な生徒になりました。
 ところが、その新島襄は同年11月、同志社設立運動中に心臓疾患の悪化で前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館で静養するも回復せず、翌、明治23年1月23日、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去します。18歳の山室は最年少で新島の棺を担ぐこととなりました。
 同志社で5年間学びますが、同志社のリベラルな神学(自由主義神学)になじめなくなり、同志社を飛び出します。在学中、ブースの著書にふれ救世軍を知り、後に「鬨の声」の編集に携わる高崎出身の長坂毅からも話を聞きました。
 明治27年6月、山室は「神と平民のために献身」「貧民労働者の伝道」を決意し、同志社を退学、高梁教会の伝道師となりました。当時の高梁教会には、後に教誨師として活躍し「家庭学校」を始めた留岡幸助や、高梁に初の女学校(順正女学校)を創設した福西志計子らがいました。半年後、さらに働き場所を求めて岡山の石井を訪ねた山室は、宮崎茶臼原に孤児25人で開設していた岡山孤児院農業部設立の話を聞き宮崎に転じます(後に岡山孤児院は茶臼原にそっくり移転します)。しかし、茶臼原ではあまり成果をあげられず、一時今治を経由して岡山に帰ります。山室はキリスト者建築家として知られていた伊藤為吉のもとで大工の修業しながら建築労働者伝道を目指すべく上京を決意していました。その時石井十次から、出来たばかりの救世軍日本本営を訪ねるように依頼され、10月中旬、東京に着くとすぐに神田の本営を訪ねました。
 伊藤の家で2か月ほど大工見習いをしていましたが、救世軍に身を投じることを決意、12月初め救世軍に志願し、会館に住み込み下足番から始めました。彼は日本人初の士官となり、以来救世軍一筋の道を歩みます。文筆力を生かして伝道パンフレット「鬨の声」の編集に携わり、著書『平民の福音』は50万冊にもに及びます。民衆の説教者として1万回の説教講演も行いました。

娼妓自由廃業運動
 山室の代表的な事業は明治33年に始めた娼妓自由廃業運動です。廃業した女性のため、救世軍婦人救済所を設置して働き口を斡旋し、結核対策の救世軍療養所の設置にも取り組み、歳末の慰問籠や慈善鍋、隣保事業や救世軍病院、児童虐待防止運動など幅広い社会福祉活動を展開します。救世軍は英国王室と良好な関係を持っていたこともあり、皇室からも支援を得ていました。山室は大正13年に勲六等瑞宝章、昭和12年に救世軍より「創立者賞」受賞しています。
 明治37年、ロンドンで開催された救世軍第3回万国大会に参加した山室はブース大将の信任を受け、来日の折には通訳を務めています。その時、日本救世軍書記長官を拝命し、大正15年には東洋人初の救世軍将官になり、さらに日本人初の司令官を務めます。
 明治32年、藤キエ(機恵子)と結婚、大正5年に機恵子が亡くなると翌年、水野えつ(悦子)と再婚します。息子の武甫や娘の民子、善子らも伝道者、婦人運動家、学者などとして活躍し、山室は昭和15年に没しました。山室は、石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれています。
(2021年6月10日付 776号)