備前法華と大覚大僧正

岡山宗教散歩(16)
郷土史研究家 山田良三

和気町本成寺の大題目岩

備前法華
 「備前法華に安芸門徒」とは、岡山や広島ではよく聞かれる言葉です。「備前は悉(ことごと)法華」とも言われていますが、備前は法華(日蓮宗)が盛んで多く、安芸は門徒(真宗)が盛んで多いということです。
 拙宅近くの岡山市南区妹尾は平家方の武将妹尾兼安ゆかりの古い町です。この町の真ん中に、地元では大寺(おおでら)と呼ばれている盛隆寺という日蓮宗の寺院があります。この寺の門前に二本の碑が建っています。一本には「南無妙法蓮華経」の題目が、もう一本には「妹尾千軒皆法華」と刻まれています。江戸の初め、ここは熱心な法華信徒だった庭瀬藩主戸川達安が治めていました。藩主達安の妹が病で他界し、母親の妙承尼がその死を悼んだので、藩主達安は、もとは真言だったこの寺に法華の日鳳上人を招いて開祖とし、妹の冥福を祈らせたのです。同時に領民にも法華を勧め、年貢の減免などの便宜を図ったため、町民は悉法華になったということです。それが今に続いていて、今でも住民はほとんど法華です。同様に岡山市やその周辺部には日蓮宗の寺院が多く、人々の多くも日蓮宗です。ただし備前国でも、私の生まれ育った南部の児島(旧児島郡、旧児島市〜現倉敷市児島、玉野市)は、ほとんど真言です。
 最初に備前に法華をもたらしたのは京都妙顕寺二世の大覚大僧正です。大覚妙実が正式な名前で、永仁5年(1297)の生まれと伝わります。幼名は月光丸。出自は後醍醐天皇皇子説や児島高徳皇子説、近衛経忠子息説など諸説ありますが、いずれも生没年などから疑問です。しかし、京での有力者との関わりなどから、近衛家に関係する高貴な家系の出自であることは間違いなさそうです。
 初めは真言を学んでいた大覚如実でしたが、17歳の時、日蓮の弟子日像と出会い、教えを7日間聴聞してその弟子になりました。日像は下総出身の日蓮の弟子で、日蓮とその弟子日朗から法華を学んだのち京に上り、度々追放されるなど迫害を受けながらも、妙顕寺を創建、京に法華の寺院を最初に建てたのです。日像に師事した大覚はその右腕として、公や武との接近に尽くすなど、法華の基盤のさらなる拡大に貢献します。それとともに、三備地方(備前、備中、備後、美作)に法華を伝え、西国に法華の礎を築きました。後にこれら西国の法華信徒が京の法華の寺院を経済的にも支えるようになります。
多田頼貞が帰依
 大覚が三備地方に赴いたのは1333年から1342年にかけてでした。備前に最初に建てられた法華の寺院が、岡山市南区浜野にある松壽寺です。旭川の土手沿いに松壽寺はあります。今はかなり内陸ですが、この頃はこの浜野村(現岡山市南区浜野)が旭川河口近くの村でした。
 この頃、浜野村に来ていたのが、南朝方の忠臣として知られた多田頼貞でした。多田頼貞は源頼光の9代の嫡孫で、後醍醐天皇に忠誠を尽くし、建武の中興の恩賞で、摂津国能勢の目代になっていました。興国元年(1340)に後村上天皇の命により伊予国に出兵、細川氏と戦いますが、多勢に無勢で敗れて備前国に逃れ、ここを拠点に近隣の豪族を味方にし、勢力を盛り返していた頃でした。
 多田頼貞は、興国4年(1343)、足利方に味方していた播磨の赤松氏と戦います。「網浜の戦い」で一度は勝利したものの、二度目の戦いで裏切り者が出て敗北、進退窮まりました。頼貞の孤忠を知る足利尊氏は、降伏を勧めます。しかし、頼貞はそれを断り、息子頼仲に「多田家は武家には仕えず、足利に仕えるなら、名を能勢に改めよ」として自刃しました。嫡男頼仲は能勢に名を改め、足利に仕えることとなり、能勢の所領安堵のほか備前17郷を与えられました。頼仲は父親の自刃の地に父の冥福を祈るため大覚を迎えて開基したのが松壽寺です。次いで二日市にあった多田家の家臣宅に妙勝寺(現岡山市北区船頭町)を開き、この二寺から三備一作の法華は始まりました。
 また大覚如実は三野郡津島村の真言宗の福輪寺を釈伏して日蓮宗としました。当時、備前国守護代で富山城主だった松田元喬は、この話を聞いて大覚を城内に招き、真言の僧侶と問答を戦わさせました。
 大覚がその問答に勝利したのを見て松田元喬は法華に帰依します。福輪寺を改めて蓮昌寺を開創、その後居城を築いた御津の金川に道林寺、妙圀寺、辛川に妙源寺、福輪寺跡に明善寺を開きました。さらに領内の寺院と領民を悉く法華に改めさせたのです。改宗に応じなかった金山法華寺(現金山寺)や吉備津宮、美作誕生寺などは焼き払われました。こうして備前は悉法華になったのです。
 また、大覚如実は備中国野山荘(現吉備中央町)の地頭伊達氏の外護を得ます。野山に妙本寺を開創、ここを拠点に備後方面にまで教線を伸ばします。妙本寺は西の身延と呼ばれるようになりました。備中から備後にかけて大覚開基とされる寺院が多くあり、備前と合わせれば、52寺を数えます。
 当時の法華の盛況を遺す史跡として「題目石」があります。大覚直筆と言われる題目石が、和気町法泉寺、岡山市西辛川大覚教会、清音村軽部大覚寺などに残り、三大題目石と呼ばれ、いずれも県や市の重文です。直筆の題目石のある清音村軽部(現総社市清音軽部)の大覚寺は、一遍上人が滞留した軽部宿近くの寺院です。ここ軽部には大覚如実も長く滞在し、備中箭田など山陽道を備中から備後方面への伝道を勧めました。同様に一遍上人の巡錫地備前福岡には実教寺が建てられました。(現在は瀬戸町鍛冶屋)
 京に帰って後は、弟子の日實が備前の伝道を継承します。日實は後に京の妙覚寺を創建したので、備前には妙覚寺の末寺が多く、備中には大覚が二世の妙顕寺の末寺が多くなっています。備前の港町牛窓の本蓮寺は大覚による法花堂が前身とされ、本能寺の日隆が弟子の日暁を遣わして諸堂を整備し、日明貿易の商人などが帰依しました。
 同じく備前市浦伊部の妙圀寺は京都本圀寺五世の日伝により天台宗から改宗、岡山県東部を流れる吉井川沿いには妙満寺を本山とする絹本法華宗が教線を拡大しました。備前は、法華の各派が競って布教することで、ますます法華が盛んになったのです。
 康永元年(1342)京に戻った大覚は妙顕寺第二世貫主となります。妙顕寺では幕府の要請で法華経を転読、天下静謐の祈祷を行い幕府の保護を受けるようになります。皇室にも祈祷を捧げて関係を深めます。旱魃のあった延文3年(1358)には、桂川の雨乞い祈祷で降雨をもたらし、この験により、師の日蓮、日朗、日像に菩薩号を賜り、大覚は日蓮宗で最初の大僧正に任じられたのです。こうしてますます重要な役割を果たしていく中、貞治3年(1364)妙顕寺で大覚大僧正は68歳で遷化、遺骸は師の日像と同じ深草(宝塔寺)で荼毘に付され、廟が設けられました。

不受不施派
 備前国で法華を外護し悉法華とした松田家は、宇喜多直家に滅ぼされますが、宇喜多家の主要な家臣は皆法華信徒でした。直家の没後、宇喜多家を継いだ宇喜多秀家は総大将として出兵した朝鮮からの帰国後、長船紀伊などキリシタンの家臣を重用しました。そこで、法華信徒の重臣と諍いが生じたのです。これが「宇喜多騒動」で、徳川家康の仲裁を仰ぐこととなりました。この時、熱心な法華信徒の家臣の多くが家康の配下に移りました。その一人が「妹尾千軒皆法華」と呼ばれる妹尾の町を法華とした後の庭瀬城主戸川達安でした。
 関ケ原の戦で西軍方に付いた宇喜多秀家は敗れ、薩摩の島津氏にかくまわれ、後に八丈島に流されます。岡山藩は、小早川から池田に引き継がれます。
 岡山には法華の中でも「不受不施派」と呼ばれる寺院が多数存在しています。「不受不施」とは、法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施したりはしないとの意味で、豊臣秀吉が京の方広寺に全寺院の出仕を命じた際、それに応じなかった妙覚寺の日奥上人などが処分されました。徳川時代には、キリシタンとともに不受不施は禁教となり、岡山城に入府した池田光政は幕府の意向を受け不受不施を厳しく取り締まりました。寺社整理も進めたため、不受不施の寺はほとんどが廃寺とされました。
 それでも「不受不施」の信仰を貫いた信徒は地下に潜伏、「隠れ不受不施」として幕末まで至ります。明治以降は不受不施も認められ、不受不施派の寺院が沢山復興しました。岡山県中東部には不受不施に関する遺跡や記録が多く残っています。
 令和元年10月、岡山県立博物館で「岡山の日蓮法華」特別展が開催されました。初出品の貴重な資料も多く、最初の展示は日蓮上人真筆の「神国王御書」(妙顕寺蔵)で、一番最後が和気町の「大題目岩」(写真)でした。
 和気の下流は備前福岡市のあった福岡や西大寺で、瀬戸内海の海運や吉井川の水運を通して法華は教線を伸ばしました。日蓮法華は加持祈祷による霊験の力で庶民の信任を得たのです。法華は武士や農民だけでなく商工業者にも受け入れられました。吉井川流域では高瀬舟などで物流を担う商工業者が多く帰依し、その財力で京の法華の寺院を支えました。
 和気町和気の本成寺に日本一の「大題目石」があります。大正時代に大阪の商工業者田中佐平治が寄進したもので、高さ17・42メートル、幅4・9メートル、自然石に刻まれた題目石です。明治以降、吉井川中流の柵原鉱山が開発され、この地域が繁盛したことから出来た題目石です。
(2020年5月10日付763号)