永源寺の開山、寂室元光禅師

 岡山宗教散歩(15)
 郷土史研究家 山田良三

寂室元光産湯の井戸(岡山県真庭市勝山)

元から隠遁の禅を
 寂室元光(じゃくしつげんこう)は正応3年(1290)、美作国高田(現岡山県真庭市勝山)に生まれました。生家は藤原氏で、藤原実頼(小野宮)の7世の孫と伝えられていますが、父の名は不詳、母は平家の女とされています。
 京の東福寺で出家。鎌倉や京で学ぶうち、元からの渡来僧一山一寧から中峰明本(ちゅうほうみょうほん)のことを聞き渡元、天目山の中峰明本から隠遁禅を学び帰国します。その後、備作地方や諸国を巡り、名利や栄華を求めぬ禅風を伝えました。朝廷や室町幕府から大寺の住持に招請されても、一切受けず、近江佐々木(六角)氏から提供された東近江の永源寺で禅の指導を行い、臨済宗永源寺派の祖となっています。
 真庭市勝山の旧勝山町役場(現真庭市中央図書館)の側に円応禅師(寂室元光)産湯の井戸があります。また生まれた場所は龍源寺跡地(真庭市勝山1132)がそれであると「作陽誌」には書かれています。幼名はこま丸と呼ばれ、5歳にして経典を暗誦、友たちと捕まえた魚を憐れみ放流するなど、明晰な頭脳と篤い帰敬の念を持っていたそうです。13歳で京の東福寺に入り、15歳で無為昭元のもとで得度、16歳で鎌倉の約翁徳倹禅師に師事、この時「元光」の名を授けられました。28歳の時、元からの渡来僧一山一寧が住職の京の南禅寺に招かれ、一山から、中峰明本の禅風を聞き、渡元を志します。
 元応元年(1320)、31歳の時に渡元、幻住派の祖とされる天目山の中峰明本を訪ね薫陶を受けます。この時、師から授かった名が「寂室」です。中峰が教えたのは、権門に属さず、山中深く隠棲して俗塵を遠ざけ、清貧をもって、ひたすら僧の道を求めた「隠遁の禅」でした。寂室はその禅風を引き継いだのです。その後元で7年学び、嘉暦元年(1326)37歳で帰国しました。この年は鎌倉の北条政権が滅ぶ4年前でした。
 帰国後、主に三備一作(備前・備中・備後・美作:現在の岡山県と広島県東部)を中心に約25年間、各地の小寺をめぐりながら修行、さらに観応2年(1351)以降は摂津や近江のほか各地を巡錫して回りました。
 この間、観応元年(1350)二代将軍となる足利義詮(よしあきら)から相模の長勝寺、豊後の万寿寺の住持に任命されますが固辞、貞治元年(1360)、後光厳天皇より京都の天龍寺に、翌年、将軍となった足利義詮から鎌倉の建長寺の住持に任命されますが、いずれも固辞、伊勢に隠遁しました。
 備作地方巡錫の途上、備中吉備津の有木にある藤原成親の墓に少なくとも2度訪れていて、成親の霊を慰めるため捧げた詩が残されています。藤原成親は後白河上皇の寵臣で、平家の専横を憤る上皇の側近たちが東山の鹿ヶ谷で平家討伐を議した「鹿ヶ谷の陰謀」の首謀者とされ、平清盛の怒りを買い、備前配流の途上、有木で謀殺されました。その後、成親の墓が荒廃していたのを、有木にある宗教法人福田海の中山通幽氏らが整備、そこに寂室が詠んだ詩碑が建てられています。
 備作地方で寂室が訪ねたとされる寺は数多くあります。60歳で尾道の千光寺を、61歳の元旦に訪ねた備前の金山寺で詩を詠み、62歳の時には、備中竹の荘(現吉備中央町)貞徳寺開山の祖松嶺道秀が弟子になり、64歳で因幡智頭土師の光恩寺を訪ね開山になっています。
 小堀遠州の作庭で知られる備中松山(現高梁市)の頼久寺の開山も寂室とされています。幕末の備中松山藩の儒学者山田方谷は寂室を偲ぶ漢詩を頼久寺に残しています。永源寺を本山とする臨済宗永源寺派の寺は、この時代に寂室が訪れた地に多く、岡山県内では特に新見や阿哲方面に多くあります。
 観応3年(1351)、兄弟弟子の招請を受け、摂津・近江に旅します。その時、天龍寺の夢想国師と出会い、以後約10年間、美濃・ 摂津・山城・近江・伊勢・尾張・甲斐・上野などを遍歴しています。
東近江に留まる
 72歳の延文5年(1360)、近江の桑実寺に滞在中、守護職・佐々木氏頼(六角氏)から、自国内の好みの地を献上するので近江に留まるよう請われます。そこで東近江愛知川上流の雷渓をもらい受け、建立したのが永源寺です。それまで、幕府や朝廷から諸国の大寺への招請を断り続けた寂室が、佐々木氏の提供を受けたのは、愛知川上流の深山と幽渓がかつての天目山に相似し、師の教えた隠遁禅を修するのにふさわしい地だと思ったからでしょう。
 以後、寂室を慕い集まった弟子は2000人に及び、56もの草庵が崖上に並んだと伝えられています。集まった弟子たちを育て、貞治6年(1367)、78歳で示寂しました。遺誡によれば、「皆は大寺ではなく水辺林下に生きよ、私の亡骸はすぐに埋めて、経一つでよい。庵は有徳の老人に与え、土地は佐々木氏に返しなさい。ただし老人たちが断るなら優れた僧を招いて安禅弁道の場にしてもよい」でした。応安2年(1368)に朝廷より円応禅師、昭和3年には昭和天皇より正燈国師の称号が贈られています。
 佐々木氏も寺領の返還を望まず、4人の高弟が永源寺を引き継ぎました。応仁の乱のころには京都五山の名僧がこの地に難を逃れ、「文教の地近江に移る」といわれるほど隆盛をきわめました。その後、度重なる戦乱で衰微しますが、江戸時代に後水尾天皇をはじめ東福門院(徳川和子)や彦根藩主の帰依を得て伽藍が再興、全国の永源寺派寺院の総本山として今に至ります。静寂で風光明媚な地に、今も多くの人々が訪れています。
 芭蕉の研究者として有名な勝山出身の浪本澤一元跡見女子大教授は『林下の禅者 寂室元光』の中で、寂室の禅風について、①僧侶だけの禅でなく在家も交わっていた②禅は日常生活に原点があり、各人がそれぞれの職分に励み、生活の中で自らの禅を修せよと説いた③名利を求めず、貧を憂えず、貴顕に近づかず、仏法の極意を身証することを僧の本道とした④芭蕉の「幻住庵記」の「幻住」の根源は寂室の参じた中峰の「幻住」に発している──と記しています。近江の芭蕉の庵「幻住庵」はここから来ています。
 備中松山藩の儒学者で藩政改革者の山田方谷は、寂室を敬愛する漢詩を残しています。「寂光照徹超禅僧 万種人情入寸灯 闔国是非皆執我 一場文武只誇能 触時骨力砕如粉 遭変血盟寒似氷 独愛山中良友足 経霜松柏満岡陵」。
 山田方谷は寂室の禅に傾倒し、京都遊学中、禅を学んだ禅寺で王陽明の教えにふれ、江戸の佐藤一斉のもとで王陽明を学び、治世と藩政改革、後進教育の精神としました。
 寂室が師事した中峰明本は「教禅一致」(儒教と禅の一致)や「禅浄一体」(禅と浄土教の一体)を教え、それを受け継いだ寂室の禅は「念仏禅」とも言われ、王陽明などの儒学や浄土門とも相通じ、日本の宗教文化に浸透していきます。日本の政治や経済で活躍する多くの人のバックボーンが形成された背後に、寂室が伝えた中峰の禅が生きていると思われます。(2020年4月10日付762号)