観音信仰の浅草寺・浅草神社

連載・神仏習合の日本宗教史(24)
宗教研究家 杉山正樹

 

宮戸川三社の由来

 古代・中世の東京湾の海岸線は、平安海進の影響で内陸に入り込み、現在の江東区亀戸から北十間川・隅田公園あたりに広がっていたと考えられている。「坂東太郎」の異名を持つ暴れ川の利根川は東京湾に注ぎ込み、その下流域が隅田川に相当、現在の浅草付近の流路は、「宮戸川」の旧称で呼ばれていた。当時の浅草一帯は、多くの小島が浮く湊であり、浅草も一つの小島の中にあった。なお利根川自体は、江戸時代初期に行われた大規模な河川改修で東遷し、現在の流路に付け替えられている。
 浅草寺・浅草神社の縁起を伝える『浅草寺縁起』によれば、推古天皇36年(628)の3月18日、「宮戸川」で投網漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が、漁網の中に一像を発見する。兄弟は像を水中に投じ場所を変えて再び投網するが、やはり同じ像が何度もかかる。結局二人は、獲物を得られないまま像を持ち帰り、土地の長者であった土師中知(はじのなかとも)に一見を請う。土師は、「これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、自らも帰依するところの仏像であり」とその功徳を滾々(こんこん)と兄弟に説く。

檜前浜成・竹成兄弟の投網図

 翌19日の朝、里の童子たちが草でつくった堂にこの観音像を祀る。土師はまもなく剃髪して沙門となり自宅(現在の駒形橋脇の駒形堂あたり)を改装して新構の寺とし、これが浅草寺の始まりとなった。観音像示現の折りには、天から長さ百尺ばかりの金鱗の龍が下り、土師は歓喜勇躍し三日三晩お堂の周りを回ってお守りしたという。その際、千株の松が生じこれが、浅草寺の山号・金龍山の由来となる。仏教公伝から90年の奇瑞であった。
 土師中知没後、舒明11年(639)のやはり3月18日、土師の嫡子に観世音の夢告が降りる。「汝等の親は我を海中より薫護せり。故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の功績は称すべきなり。 即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守し、名付けて三社権現と称し齋祀らば、その子孫・土地共に永劫に繁栄せしむべし」。これが三社権現社、後の浅草神社の創建となった。御祭神は、聖観音の示現に所縁の深い土師中知命・檜前浜成命・檜前竹成命の3柱である。

浅草寺

 大化元年(645)、勝海と称する僧が浅草寺に留錫、件の観音像を供養中に眼病となり所持の三衣一鉢を紛失、見つかるように祈願したところ本尊が現れ姿を直に見ることを禁じたという。以後、観音像は絶対秘仏となった。
 ちなみに明治2年、観音像の実在疑惑がにわかに興り調査が行われた。その結果、奈良期様式の聖観音像と確認(高さ20センチほど・焼けた跡・両手足なし)される。戦災で本堂は焼失、この時本尊は戦災前に地中に埋めて安置して事なきを得た。
 現在、拝観可能な「裏観音」(本尊と同様式・高89センチ)が安置されている。天安元年(857)には、延暦寺の慈覚大師が参拝者拝礼用の観音像を彫像したと伝わる。それ故に浅草寺では、勝海上人を開基、慈覚大師を中興開山としている。
 『浅草寺縁起』は、正和元年(1312)の3月、「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、船遊の祭礼を営み天下の安寧を祈るよう」との神託も伝えている。これが東京の初夏の風物詩として有名な「三社祭り」の起源、船渡御(ふなとぎょ)の始まりとなった。当初は、3月17、18の両日に行われていたが、明治以降、船祭は廃絶され祭礼も5月17、18の両日に行われるようになった。

浅草六区の賑わい

 明治政府は、太政官布達第拾六号により徳川家の威光の色濃い浅草寺・寛永寺・芝増上寺に深川富岡八幡・王子権現を加えた5か所を欧米都市に倣い日本初の「都市公園」とすることを決定。浅草寺・浅草神社は、元々一体不可分の関係にあったが、浅草寺の境内地は寺社領上地令により公収、明治6年に浅草公園が開設され明治17年までに6区に区分拡張される。公園地自体は、明治26年の指定解除により再び浅草寺の所有地となるが、浅草寺周辺はその後、東京随一の賑わいを見せるようになる。
 上野恩賜公園(寛永寺)には、東京国立博物館・国立西洋美術館・国立科学博物館などの文化施設が集中し、高村光雲作の西郷隆盛像、ソメイヨシノの名所としても知られる。芝公園(増上寺)・深川公園(富岡八幡宮)・飛鳥山公園(王子権現)も同様に、東京の歴史文化地を代表する緑地遺産として都民に憩いの場を提供している。全国の都市公園も概ね東京五公園に準じた背景と由来を持つが、神仏習合の歴史と文化を伝えるもう一つの側面として記憶に留めたいものである。
(2024年5月10日付 811号)