随心院で小町ゆかりの「はねず踊り」

連載・京都宗教散歩(30)
ジャーナリスト 竹谷文男

燃えさかるお松明=清凉寺本堂回廊から撮影小町ゆかりの「はねず踊り」を舞う小学生=京都市山科区の随心院

 小野小町ゆかりの随心院(京都市山科区小野)で3月31日、わらべ歌にあわせて地元の小学生女児20人が踊る、小町ゆかりの「はねず踊り」が披露された。「はねず色」は梅の花の薄紅色で、女児たちははねずの小袖をまとっている。「小野わらべ歌」は、平安時代、美人の誉れ高い小町のもとに、若い貴族の深草少将が焦がれ通った百夜通いの話にちなむ。
 小町は仁明天皇(810─850年)の寵愛を受けたものの皇后の嫉妬を受けて小野の里に隠れ住んでいた。仁明天皇の近侍だったと伝わる少将が、小町に憧れたのも不思議ではない。
 欣浄寺(京都市伏見区)のあたりに住んでいた少将は小町のもとに「百夜通い」の願を掛けたが、九十九夜目の雪の夜に道で倒れて凍死してしまった。わらべ歌では、倒れた少将の替わりに少年が知らせに走り「今日でどうやら九十と九夜 百夜まだでもまぁお入りと よー 開けてびっくり おかわりじゃ」と歌う。残された小町はその後、梅の季節になると近所の子供を集めてはねず色の着物を着せ、踊らせたという。
 小野小町は才色兼備の女性として六歌仙に名を連ね、小倉百人一首の「花の色はうつりにけりな」の歌で知られる。文人官僚だった参議小野篁(たかむら)の孫で、名筆小野道風の従姉だったともいわれる。小町は雨乞いの力もあり、内裏の南側にあった神泉苑で雨を降らせたともいう。
 百人一首の歌のためか、小町は「美人といえども人生ははかなく空しいもの」と仏教説話に使われることが多く、残された像や絵には老いた姿が多い。説話の一つによると死に際して「遺骸は捨てて腹の減った犬に食わせてやれ」と歌ったという。また野ざらしになった小町のドクロの目に、ススキが生えて風でこすれて「あなめあなめ(ああ目が痛い)」と嘆くので、通りがかった僧がススキを抜いてやったという伝えもある。
 能の『通(かよい)小町』では、小町の怨霊は市原(京都市左京区)の山里からやって来るが、市原には小町終焉の地の一つと伝わる補陀洛寺、通称「小町寺」があり、叡電の市原駅で降りて坂を10分ほど登ると着く。そこには「小町姿見の井戸」と示された石組、石造りの小町の供養塔が立つ。さらに小町のドクロの目を痛めた「あなめのススキ」を示す石標も立っている。ここを訪れた梅原猛氏は「寺の印象は誠に強烈で、四、五日の間私の心に野分(のわき)の風が吹いていた」(『京都発見』第3巻、新潮社刊)と述懐するほど、荒涼とした風情である。

小町が雨乞いをしたと伝わる神泉苑=京都市中京区

 では、願をかけた最後の日の前日、九十九日目にたどり着けずに雪道で凍え死んだ深草少将と、それを待っていた小町はその後、どうなったのだろうか? 観阿弥が小町について書いた二つの謡曲の一つ『通小町』はハッピーエンドで終わる。
 それによると、京都の八瀬で修行している僧が市原野へ出かけて小町の霊を弔おうとすると、深草少将の霊が現れて小町の成仏を妨げようとする。少将も地獄から抜け出したいのだが、小町一人が成仏すれば自分は一人きりになり耐えられないと訴える。僧が少将に、懺悔して罪滅ぼしをするように勧めると、少将は百夜通いのあり様を説明し始める。「輿車(こしぐるま)はいふに及ばず馬はあれども、君を思えば徒歩跣足(かちはだし)」と、徒歩で通った苦労を語り、九十九日目の夜はもう明日一日だけという楽しい気持ちになって晴着を着て歩いたと告げた。そして、翌日の祝い酒を心に思い描いたとたん、「仏道に酒は禁物」なのを思いだし「月一盃なりとても、戒ならば保たんと、ただ一念の悟りにて」と、戒律を思い出して懺悔の心を取り戻し、少将も小町もそろって成仏に至る。
 観阿弥は、最後の夜となった九十九日目の楽しい気持ちを思い出し、心に余裕が生まれた少将が「飲酒の仏戒」に思い至ったという小さな仏縁を機縁に、二人とも成仏するという結末を書いた。
 仁明天皇の寵愛を受けたがゆえに容易に少将の愛を受け入れなかった小町と、天皇の近くで小町を見そめ、非業の最期を遂げた少将との結末をどのようにつけるかは、難しい選択だったのではないだろうか。愛欲の地獄で苦しませるのか、天上から降りるクモの糸のようにか細い仏縁で二人を成仏させるのか? 憑依の芸術と言われる能の大成者観阿弥は『通小町』で、少将の霊が「飲酒の仏戒」を思い出すというきわめて小さな仏縁により二人で成仏するという結末を選んだ。
 女児たちの可憐なはねず踊りは、悲恋の小町と少将とを慰めているのか、共に成仏した二人の幸せな心象を映しているのか。もし観阿弥がこの踊りを見れば、どう感じるだろう?
(2024年5月10日付 811号)