讃岐の龍神信仰・田村神社/香川県高松市

水神から讃岐一宮へ

天に昇る龍の像

 香川県高松市一宮町に讃岐一宮の田村神社がある。田村は地名で、雨が少なく、山に降ってもすぐ海に流れ込む地形のため、昔から水不足に悩まされてきた香川県の中でも、当地は地下水が比較的豊富で稲作が盛んだったことから、歴史的に「水神様」を祀る自然崇拝が田村神社の始まりとされる。その後、大和朝廷の統治が讃岐にも及んだことで、現在の御祭神が祀られるようになったのであろう。
 社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべ、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709)に行基が社殿を設けたのが創建とされ、「定水井」は現在も奥殿の下にある。
 田村神社の御祭神は、讃岐国の開祖伸と伝わる倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)と、その弟で、別名が吉備津彦命の五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)、瓊瓊杵尊の天孫降臨を先導した猿田彦大神 、他に天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと)である。以上五柱を総称して田村大神と呼ばれている。
 倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の御代に疫病で苦しむ人々を救い、また武埴安彦の謀反を防ぐなどの勲功を上げたことにより、多くの勲功を意味する百襲(ももそ)の名が付けられた。弟の五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り、農業殖産の開祖神となった。昼は人が造り、夜は神が造ったことから「箸の陵」といわれる御陵は奈良県桜井市箸中にある。五十狭芹彦命は崇神天皇により国を平定するため四方に派遣された「四道(しどう)将軍」の一人で、吉備国の祖神となった。各地に伝わる桃太郎伝説の主人公で、岡山の吉備津彦神社の主祭神である。天隠山命は東征する神武天皇の窮地を救った神で、後に御子の天五田根命と共に紀伊国より讃岐国に渡り、境界線や水上運送などの整備を進めたとされる。

田村神社本殿

 田村神社は古くから朝廷に信仰され、平安時代にはたびたび神階の授与が行われている。延長5年(927)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡田村神社」と記され、讃岐国一宮として信仰されるようになる。建仁元年(1201)には正一位に昇り、弘安7年(1284年)の銘がある「正一位田村大明神」の扁額が残されている。
 鎌倉時代以後は武家からも崇敬され、長禄4年(1460)には細川勝元により社殿が造営され、当社の関係者が守るべき事項を記した「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。天正年間(1573―92)に仙石秀久から社領100石を寄進され、松平大膳家の祈願所となっていた。延宝7年(1679)に高松藩主の松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。
 上記の「定水井」については不思議な話が伝わっている。
 明暦元年(1655)神社から社殿改築を依頼された普請奉行の竹村斉庵(さいあん)は、神官に「社殿下の淵を見たい」と言い出した。神官は「どんな祟りがあるか分からない」として断ったが、「それでも見たい」と言うので、ついに見せたところ、しばらくして水が逆巻き上り、その中から赤い舌を巻いた龍が頭を出し、斉庵をにらんだ。気分が悪くなった斉庵は急いで駕籠で家に帰ったが、妻に仔細を語りながら亡くなったという。
 その後、工事が半ば進んだ頃、淵の蓋の真中に60センチほどの穴が開き、大工がそこから鑿(のみ)を落としてしまった。すると龍が現れ、その鑿を角に掛けて差し出したので、恐れた大工は足で鑿を挟み上げたが、たちまちに死んでしまったという。「定水井」はいわゆる「見てはいけない」神秘の深淵で、いずれも龍神の力を伝える伝承であろう。
 田村神社の創建に深くかかわる龍神様を目の当たりにできるのが、摂社「宇都伎社」の前にある龍神像である。同社の御祭神は龍の姿で顕現なされたとされ、この金龍に黄金を供えると長者になるという伝説から、像のもとに人々の願いを込めた大判小判が供えられている。境内には古くからの湧水池もあり、神仏習合の弁才天も祀られている。

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