空海と親鸞の日本仏教

2023年10月10日付 804号

 今年は真言宗では空海生誕1250年だが、浄土真宗では親鸞生誕850年である。仏教の最後に現れた大乗仏教の最終ランナーが密教で、チベットと中国に伝わり、後者が空海を介して日本に届き、教義としてかつ社会的宗教として定着した。
 空海の教えが広まるきっかけは、没後90年ほどで弘法大師の大師号を朝廷より授かったことで、以後、大師信仰として庶民にも浸透していく。そこで活躍したのが泉鏡花の小説にもある高野聖で、興味深いのは彼らは念仏を唱えながら弘法大師の功徳を説いたこと。
 浄土真宗は信者数では日本で最大だが、南無阿弥陀仏を広めた第一の功労者は時宗の一遍だとされる。伊予の水軍、河野氏の生まれで、武家を継がず、浄土宗の教えに生きると決め、宇佐神宮の八幡信仰や熊野信仰も吸収しながら、遊行の途上で自然に生まれた「踊り念仏」が一世を風靡した。時宗は鎌倉仏教の最終ランナーで、密教と同じくそれまでのすべての教えを集約する役割があるのかもしれない。ちなみに、空海も一遍も四国の生まれである。

真言宗と浄土真宗
 一般的に、釈迦の教えに最も近い日本仏教が禅宗で、最も遠いのが浄土真宗と言われる。しかし、釈迦の言葉を紐解くと、親鸞は釈迦と同じことを言っている。釈迦がいなくなった後、どう生きればいいのかと聞く弟子に、釈迦は「自燈明、法燈明」と答えたという。暗闇に灯る明かりのように自分自身を頼み、宇宙の真理を頼りにせよとの意味。「私のように生きなさい」と言ったのではない。宗教の伝承に師弟関係は重要だが、師を絶対視すると、発展は止まる。発展し続けるのが宗教をはじめ人間の知的営みであることを、釈迦はよくわかっていたのであろう。
 『歎異抄』によると、どうしても阿弥陀如来の救いが信じられないという弟子に親鸞は、「私もそうだ」と答えている。それは、自分で探求し、体験し、それぞれの境地にたどり着くしかないという宗教の基本に即した考えからであろう。
 一方、師の法然になら騙されても構わない、というのも親鸞の偽らざる気持ちである。その二つの立場を行き来しながら、最終的には自分の生きる道を見いだすのが信仰であろう。明治以降の近代化を急ぐ日本で、とりわけ日露戦争後の「煩悶青年」の時代に、親鸞の教えが若者の心をとらえたのは、自我の確立と軌を一にしていたからである。
 日本宗教史的に空海の役割を考えると、天皇の帰依を得て、後七日御修法(ごしちにちみしほ)のように仏教が朝廷の宗教儀礼に組み込まれたことが大きい。
 空海が2年、滞在した当時の長安は世界一の国際都市で、交易を通じてキリスト教やイスラム教、ゾロアスター教などアジアの宗教が集まっていた。空海が目指したのは密教を超えた地球規模の普遍宗教で、そのため中国の道教や儒教をはじめ渡来の宗教施設を訪ね、学び、吸収している。真言宗が神道を取り入れたのも自然の流れであった。
 空海の関心は医療や土木建築、教育などにも広がり、それが帰国後の満濃池の修築や綜芸種智院の創設などにつながる。また、唐の密教は皇帝の政治を呪術で支えていたことから、空海は唐の政治にも詳しくなり、そこから日本での政治的振る舞いを考え、それが帰国後の政治とかかわる都の東寺と、修行の場としての高野山に結実した。
 空海の帰国後、唐の皇帝武宗は道教に傾倒して仏教を迫害するようになり、密教は衰退してしまう。残った中国仏教は、山林に逃れ、自給自足しながら継承してきた禅宗と浄土宗で、密教は日本に渡ることで命脈を保てたのである。心の教えである宗教も、世俗に着地しないと社会に広まれない。
 古代においては、皇帝や天皇の帰依を得るかどうかが決め手となる。中国での師・恵果の行動を思いながら、日本でどうすればいいか、都に帰るのが許される前に、空海は思慮したに違いない。呪術を求める皇帝に恵果も応じていたように、空海も同じ方法を取りながら、一方で普遍的な宗教としての真言密教の完成と修行の継続を確立しようとした。宗教にその両面が必要なことは、人間そのものがその両面を生きているからである。

「世間」に生きる
 人類の中でホモ・サピエンスが繁栄したのは、社会を形成する能力が優れていたからだとされる。アランは『幸福論』で、人間の悩みはすべて人間関係の悩みだという。本当は協力し合わなければならない身近な人たちと、人はなぜか敵対しがちだ。それは、近いからこそあらわに見え、好悪の対象になるから。卑近のようだが、宗教の社会的役割として求められる第一は、それをどう解消するかであろう。
 「漏れる利他」はそのヒントの一つ。個性を尊重しながら、個性が相乗効果を生むような関係の社会を築きたい。それが、西洋にはない日本の「世間」なのだろう。