神社本庁伝統文化セミナー基礎講座

「Withコロナに健康を祈る」

講演する加藤健司帝京大学講師

 12月15日、東京都渋谷区の日本文化興隆財団で神社本庁伝統文化セミナーの基礎講座が報道関係者が多数参加して開催され、「Withコロナに健康を祈る」のテーマで2人の講演があった。
 神社本庁教化広報部長・牛尾淳参事の挨拶に続いて、元鶴岡八幡宮教学研究所所長で帝京大学講師の加藤健司氏が「年中行事~邪を払う~」という題で講演、要旨は次の通り。
 昔から災害や病気は神様の祟りが原因だと信じられてきた。災悪をもたらす神様を慰めるために、幣帛を奉ったり、神様の位を上げたり、行事を行ったりし、それらは道教や仏教の影響も長く受けてきた。
 律令国家における国家祭祀の大綱を定めた「神祇令」に年中行事が書かれている。それには朝廷以外の神社の祭りも含まれていて、「4月の神衣祭、9月の神衣祭、神嘗祭」は伊勢の神宮の祭り。朝廷以外の祭りに「3月の鎮花祭」があり、「厄神分散して癘(れい、流行り病)を行う」ので、必ずこの祭りを行うと書いてある。この祭りでは、神祇官の幣帛を奈良の大神神社の運び手がもらい、お祭りをした。疫病が蔓延する4月、5月の前に、大和鎮護の神社である大神神社で鎮花祭を行うのである。
 6月に月次祭・道饗祭・鎮火祭を行い、12月にも同じ祭りを行うと記述されていて、「六月、十二月の晦日の大祓、祓は不詳の解除なり」と書かれている。神社では今でも6月と12月の最後の日に行われ、身体の穢れを祓う。道饗の祭りも神祇官の卜部が6月と12月に幣帛を奉ってお祭りをしたと記録されている。「鬼魅の外より来る者をして、敢へて京師に入らざらしめむと欲す」とあり、道の上で三神(八衢比古・八衢比売・岐の神)を祭って、鬼魅の侵入を防ぐ。
 神祇令のお祭り以外に、民間の流れで節供(せっく)がある。「節日の供御」と言われ、節目に神様を迎えてお祭りをし、お供え物をするので「供」の字を使うのが望ましい。

講演する浅山雅司参事

 次に國學院大學講師で神社本庁総合研究部長の浅山雅司参事が「人生儀礼~厄と祝い~」という題で、次のように講演した。
 祭りを分類すると、基本的な節目のお祭り、お願いをするお祭り、感謝をするお祭りの3通りあり、個別ではなく、重なっている。祭りは神様と人が触れ合う機会だ。
 祭りには、公の祭と私の祭がある。公の祭は天下、国家、世の中が平和になりますようにと、私の祭とは、私の身体、私の一族のため、そして私の願いが叶いますようにというもの。自分の幸せは周りの幸せなので、私の平和は天下、国家の平和につながる。
 人生儀礼には、誕生にかかわる祭り、入学・卒業奉告祭などの成長にかかわる祭り、成人式や神前結婚式などの成人にかかわる祭り、そして厄年祓、年祝いなどがある。人生儀礼は自分のためだけではなく、次に繋がるステップで、お祝い事はなるべく家族、親戚、地域の人を入れて、次に続くよう、より多くの人たちの前で行うのが良い。
 人生の「厄」を祓うのが大きなポイントで、「厄」とは厄年の略でもあり、わざわい、まがごと、災難、そして疱瘡(天然痘)をさす。多くの人が亡くなった疱瘡は今のコロナのようなものだった。
 「厄年」は全国どこでもほぼ同じだが、地方により昔からの伝統で若干のブレがあり、「厄除け」も地域によっては「厄年祝い」という。厄年の祝いの原型は、江戸中期に書かれた『和漢三才図会』に書かれている。そこには、『素問』(中国の医術書『黄帝内経』の一節)は初めは七歳、以後九年を加えていると説明し、今(江戸時代)は俗に、男は四十二、女は三十三をもって大厄となし、その拠り所はわからないと書かれている。
 『栄華物語』では、中宮彰子の「十三歳の忌み」の記述がある。京都近郊には、今でも女性が13歳になる年に厄除けのお祝いをする「十三詣り」がある。理由は不明だが、大人になる節目であると考えられる。
 男の厄年の42歳は、昔は働き盛りではなく、武家では子供に家督を譲って引退する年で、ライフスタイルの節目が厄年とされてきた。
 厄年の概念は、遣唐使の頃に「忌むべき年」として日本にもたらされ、朝廷の中で一定の評価を受け、行事を行うようになった。それを担当したのが陰陽師で、その後民間に広まり、地域差をもちつつ定着したのだろう。

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