日露戦争で活躍した女性看護師-出雲やすをの青春-

浅井歴史民俗資料館で第20回終戦記念展

出雲やすを

 滋賀県長浜市の浅井歴史民俗資料館で第20回終戦記念展「日露戦争で活躍した女性看護師-出雲やすをの青春-」が11月8日から12月18日まで開催されている。

 明治19年(1886)年に長浜市鍛冶屋町で生まれた出雲やすをは、長浜キリスト教会の世話になりながら看護婦を志し、苦学して明治37年(1904)に新島襄が開学した京都看病婦学校を卒業。この年に始まった日露戦争の従軍看護婦に志願した。当時は日本がロシアに勝てるとは想像しがたく、やすをは兵士と同様、祖国の為に命を捧げる覚悟だったという。日露戦争での女性看護師は2160人で、これが日本における事実上、一般国民による従軍看護師の始まりだった。犠牲者は39名で、後に靖國神社に合祀されている。

 同展ではクリミヤ戦争で活躍したナイチンゲールの博愛精神を志に「白衣の天使」として従軍した出雲やすをの当時の資料が展示されている。出雲やすをは東京渋谷予備病院に勤務し、また病院船「博愛丸」に乗船するなど、女性看護師としてその青春のすべてを傷病兵の看護に捧げた。「旅順の湾にはロシアの船が舳先を見せて沈んでいた」「手足がちぎれて達磨さんのようになった兵隊さんが泣いていた」と語るなど、凄惨な戦場の様子を家族に伝えている。後に大陸に渡り、4年間にわたり奉天、鉄嶺の病院にも勤務した。

 当時の日本では「婦人画報」などのマスコミで女性看護師の様子が大きく取り上げられ、女性の社会進出のシンボルとして称賛された。また、新島八重が大阪の陸軍予備病院で従軍看護婦として従軍し、その功績によって叙勲の対象になることにより、その後新しい女子の職場として女性看護師の人気が高まるきっかけとなった。

 晩年の出雲やすをは、英文の聖書を読み、仏壇で仏を拝み、神社を参拝する普通の人であったが、いつも「蝉が可愛や七日の命」とよく言っていたという。多くの傷病兵の悲惨な姿を見て来たやすをは、いつも「命の大切さ」を感じていたのだろう。

会場:浅井歴史民俗資料館

会期:11月8日㈫から12月18日㈰まで(月曜日と11月24日は休館)

開館時間:午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)

お問い合わせ: 0749-74-0101