八幡神の始まり宇佐神宮
連載・神仏習合の日本宗教史(4)
宗教研究家 杉山正樹
八幡神を祀る八幡社は全国の神社8万8千社の半数近くを占め、二位の神明社を大きく上回る。八幡社の総本宮が大分県宇佐市の宇佐神宮で、伏見稲荷と共に渡来人秦氏の創建とされている。記紀には登場しないが、わが国で最も重要な社宮の一つであることに間違いない。宇佐神宮の神仏習合では、鎮座地の地政学が重要な役割を果たしている。南方に隼人、西方に筑紫という在地勢力が進出し、対馬の先には朝鮮半島が控えていた。豊前は、民族と民族がしのぎを削る文明衝突の場であった。
豊前地方の原初の信仰形態は、南方の御許山(おもとさん)を尊崇する宇佐氏の山体信仰である。ここに5世紀初頭、朝鮮半島の動乱を逃れ、新羅系渡来集団(後に秦氏系辛嶋氏となる)が大挙して入植、彼らが信奉する「新羅の神」が持ち込まれる。『豊前国風土記』逸文に、「むかし、新羅の国の神、自ら渡り到来りてこの川原に住みき、すなわち名を鹿春(かはる)の神といひき」とある。『八幡宇佐宮御宣託集』(以下『託宣集』)には、「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」と記される。秦氏は、畑作・養蚕・機織・銅鉱山・鍛冶など、当時の最先端技術を日本に伝えたテクノクラートで、習俗や宗教の成立でもわが国に多大な影響を与えていた。
巫儀に長じていた秦氏は、「新羅の神」を降ろす依り代を用いていた。『託宣集』の「八流の幡」は、彼らが依り代として用いた幡を指し、これが「八幡」に転訛したものと考えられている。豊国地方には「幡」を含む地名が多く、宗教史学者の逵日出典氏は、この関係性を指摘する。宇佐市の北西・香春岳の山麓には、香春神社(田川郡香春町)が鎮座し、宇佐神宮と共に豊前を代表する神社で宇佐神宮の本宮と比定されている。「香春」は、『豊前国風土記』の「鹿春」が由来で辛嶋氏の原郷である。香春神社の主祭神の辛国息長大姫大目命は、「鍛造技術を持つ鞴(ふいご)の神に仕える巫女」の意味合いであるが、多度大社別宮の祭神「天目一箇命」も鍛冶の神である。また「辛国息長大姫大目命」と気比神宮の「氣比の神」は同一神とされ、両社の神仏習合と秦氏とのかかわりが示唆される。
宇佐氏・辛嶋氏の治める豊前に、朝廷から勅使として大神氏が入植すると、新羅の神に皇統が習合し「八幡神」の誕生と品陀別命の示現を見る。霊亀3年(716)、隼人の反乱が起き朝廷は、「八幡神」の神託を得てこれを鎮圧、隼人征伐の慰霊と滅罪のために「放生会」が執り行われ、その後、宇佐神宮の重要な勅祭となっていく。巫僧の法蓮(生没年不詳)は、この神軍に戦功があったとされ、宇佐八幡宮神宮寺(725年創建)の初代別当を任じられる。道昭に学び、彦山(現在の英彦山)の般若窟に籠って修行を重ねた法蓮は、洞窟で八幡神と出会い「吾は八幡神である。日本国の鎮守となり、宝珠を得て日本を利益したい。弥勒菩薩の出世に結縁せしめるために、弥勒寺を建て神宮寺となし、その寺の別当としてあなたを迎えたい」と告げられる。
天平19年(747)、宣託が降り「八幡神」は大仏建立への協力を表明する。禰宜尼の体を借りて南都に入京した八幡神は、やがて伊勢神宮と並ぶ神格を獲得するに至る。大仏に塗る泥金が不足すると、「必ず国内より金は出る」と託宣を発し、無事に東大寺は完成。これらの功により天応元年(781)、朝廷は鎮護国家・仏教守護の神として「八幡大菩薩」の神号を授けた。これが、日本古来の神々が、仏法守護の善神「護法善神」として取り込まれて行く始まりとなる。
ちなみに、宇佐八幡宮から東大寺へ巡幸する際、「八幡神」の御座として使われた紫の鳳輦(ほうれん)が、神輿の起源とされる。また、東大寺を開山した初代別当は良弁で、彼の父は秦常満という秦氏であった。
平安時代には、「八幡神」の「護法善神」の性格がさらに強まり、京都の裏鬼門の守護として石清水八幡宮の創建を見るに至る。その後、同宮は源氏の尊崇を得て、鎌倉に鶴岡八幡宮が創建され、八幡神は鎮護国家・武家の守護神として全国に広がっていく。
権力に近づくことを極力避け、脇役に徹し、朝廷を守護することで定着と繁栄を図った秦氏の宗教史が八幡神とも言えよう。「秦氏の考究は、そのまま日本文化の考究に繋がる」(大和岩雄『秦氏の研究』)との視点は、神仏習合の理解にも欠かせない。(2022年7月10日付 789号)