鎌倉を京に並ぶ武士の都に まちづくりに見る頼朝の願い

鶴岡八幡宮鎌倉国宝館「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」オープン

鶴岡八幡宮

 NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ3月1日、鎌倉市の鶴岡八幡宮にある鎌倉国宝館に「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」がオープン、来年1月9日まで楽しめる。鎌倉幕府が開かれた当時から今も鎌倉の中心にあるのが鶴岡八幡宮。鎌倉の街歩きは、鎌倉駅に近いここから始めるのが、歴史を一番感じやすい。
 太平洋に面する鎌倉は三方を山に囲まれた防衛上に有利な場所で、源氏ゆかりの当地を拠点にしたのも、源頼朝の軍事感覚からだろう。平地に開かれた相模や武蔵の国の国府があった場所に比べると、はるかに守りやすい。
 歴史学者の磯田道史国際日本文化研究センター教授は、NHKの歴史番組で「頼朝は鎌倉に建築物や道路を配置し、自分の政権の系図を描いた」と述べている。鶴岡八幡宮から北は頼朝と祖先たち、同宮の東隣に大倉御所(幕府)を構え、未来を象徴するのが海に向かう由比若宮(ゆいのわかみや、元鶴岡八幡宮)で、武家の棟梁の血筋であることを可視化したという。北条政子が産む嫡男が頼朝の政権を継承することを、ライバルである周りの弟たちにも見せつけたのである。
 「鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に延びる直線の参詣道の若宮大路は、政子が頼家を身ごもっているときに造られたもので、頼朝から頼家へのまっすぐな政権移譲が効果的に可視化されている」と、大河ドラマの時代考証を担当している坂下孝一創価大学教授も賛同していた。
 鶴岡八幡宮は、相模守であった源頼義が奥羽(東北)での戦に勝利し京に帰る途中、1063年に鎌倉に立ち寄り、この地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を勧請したのが始まり。その五代後の源頼朝が、現在の鶴岡八幡宮がある場所に社殿を移してから、由比若宮・元八幡と呼ばれるようになった。
 大倉御所跡や頼朝の墓、鎌倉宮の先に、発掘後整備されている史跡永福寺跡があった。永福寺は鎌倉市二階堂にあった寺院で、源義経や藤原泰衡ら奥州攻めで亡くなった武将らの鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂を模して頼朝が建立した。
 二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂を中心とする壮大な伽藍の配置は、三堂が複廊を介して南北方向に一列に並び、両側の堂からはL字型の廊が付属し、中門・釣殿が造られていて、そのまえに壮大な庭園と池が配置されていた。連想したのは宇治の平等院だが、こうした伽藍配置と規模は頼朝の独創性を示している。

大河ドラマ館

 御所の東北、丑寅の方角を守るとともに、都などからの客人を接待する迎賓館としても使われ、京に匹敵する文化が鎌倉にもあることを見せたのであろう。
 発掘調査では中国から輸入された青磁や白磁が多く発見されており、頼朝の目は海を介して海外にも向けられていたことが分かる。
 地域歴史学の中井淳史氏は、大量に発掘されながら、人々の暮らしに近すぎて、考古学では注目されてこなかったかわらけに注目した『中世かわらけ物語』(吉川弘文館)で、鎌倉などの陶工がろくろで作り、最後に京風に仕上げていたと分析している。大量生産され、安価なため、宴会で使用された後は投げて割られており、その音で邪気を払うと思われていたという。ドラマの宴会シーンを注目したい。
 大河ドラマ館では、長大なスクリーンに、山上から海を見た鎌倉の全体像が映し出されていた。頼朝の願いにもかかわらず、その血筋は三代で途絶えるが、その信仰・思想を可視化した鎌倉は、今も世界の人たちを引き付けている。