信仰が守る地域のSDGs
2021年6月10日付 776号
「それにしても頭ヶ島の未来が気になって仕方がなかねぇ。今いる私で信徒たちは最後になるでしょう。それまでは自分たちができることをやり続けること。無事に献堂百周年を迎えること。私の父に、その報告ばせんといかんけんね」
長崎県南松浦郡新上五島町の頭ヶ島(かしらがしま)にあるユネスコの世界文化遺産、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「頭ヶ島の集落」に立つカトリック教会、頭ヶ島天主堂を守る高齢の信徒代表の言葉に、涙が出る思いだった。彼の父は、天国にいる。
限界集落の教会
新上五島町にあるカトリック教会29の多くが、いわゆる限界集落に建っている。白浜地区にある頭ヶ島天主堂も、集落はわずか7戸。そこまで減少したのである。世界遺産になったので観光客が増え、町が支援しているが、基本的には住民十数人で教会を守っている。教会を含む人と地域の暮らしをである。近代社会では信仰は個人の内面のこととされるが、ここでは先祖を含む共同体の生き方として継承されている。
同教会の歴史を見ると、明治2年頃にキリシタン迫害を逃れ、上五島・中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタンが、当時、無人島だった頭ヶ島に移住し、明治20年にカトリックに復帰した信徒たちにより初代の聖堂が建設され、大正8年に10年の歳月を費やし、石造りの天主堂が完成、平成13年に国の重要文化財に指定された。平成30年に世界遺産登録が決定した翌年、献堂百周年を迎えたことになる。
石造りにしたのは、近くで良質の砂岩が取れ、地元に優れた建築家と石工たちがいたこと。鉄筋コンクリート製より安価だったが、それでも10年を要したのは、建設費の工面が大変だったから。出稼ぎに出てそれをまかなった島民たちもいた。一般的に寺を維持するには300戸の檀家が必要だとされ、本堂の修復などには数十万円の布施を依頼されることがあるが、それに比べて圧倒的に少人数で、この天主堂は建設、維持されてきた。それを支えたのは島民たちの、長い潜伏キリシタン時代からの信仰である。
今、日本の地域の多くが消滅の危機に瀕している。経済合理性が人々を都市に集め、それを支えていた地方を、何より地域の自然を荒廃させている。未来を展望すると、水源を断たれた川のように、やがて都市も枯れていくのではないか。その前に、人々の心が乾いていく。共同体を形成することで社会を成り立たせてきた日本という国が、立ち枯れしてしまうのである。
それに警告を発したのがコロナ禍ではないかと思う。30億年前から地球上に存在し、人類の進化にも多大な貢献をしてきたウイルスの一種が、人間とのかかわりで変調をきたしたのである。私たちは自然との付き合い方を、根本から見直すよう迫られている。
環境破壊や社会格差の拡大など資本主義の限界が指摘されている中、コロナ禍がSDGs(持続可能な開発目標)の重要性を再認識させている。それは経済社会の在り方を、一人ひとりの生き方から見直そうとするものと言えよう。
150年前、渋沢栄一が論語(道徳)と算盤(経済)を唱えたのは、次世代により良い世界を残すためだったと、子孫の渋沢健コモンズ投信会長は語る。それは父祖たちの信仰を守り続けている五島のカトリック信徒たちに通じる。というか、古くから続く日本の地域社会のほとんどで見られた人々の生き方、営みである。神社や寺がキリスト教の教会に変わったのは、小さな歴史上の変化にすぎない。
共同体の信仰
新上五島町の有川港にあるターミナル「鯨賓館」にはクジラのモニュメントと剥製が飾られていた。江戸時代から昭和30年頃まで、当地は捕鯨で栄えたからである。
今も隠れキリシタンが暮らしている平戸市の生月島と同じで、同島の資料館は1階が捕鯨の、2階が隠れキリシタンの展示だった。
暮らしを支える経済は継続が不可欠で、今の世代は次世代の暮らしを考えないといけない。地域の人たちと語り合う中で、持続可能な「地域の真理」を見出し、一人ひとりが責任を果たすことが、今の地方に求められている。それを支えるのが共同体の信仰である。