丑年は天神さまに初詣

菅原道真と牛の不思議なゆかり

北野天満宮

 今年は丑年。牛は菅原道真を祀る天神さまで神の使いとされているので、コロナ禍だが大阪天満宮と藤井寺市の道明寺天満宮、そして京都の北野天満宮にお参りした。牛が日本に渡来したのは古墳時代の5世紀頃。水田が広がり始めた時代で、牛は農耕やたい肥に大切な家畜として飼われてきた。おとなしく、まじめに働く牛は日本人に似ている。(多田則明)

 大阪天満宮に露店はなく、初詣の少なさに驚いた。行列整理に張られたロープの出番はなく、すぐ拝殿の前へ。賽銭除けだろうか、屋根から緑色の網が垂らされ、その向こうで巫女が、御朱印を授かった人のためにか短い神楽を舞っていた。
 道明寺天満宮には白い牛に乗った道真公の絵馬が掲げられていた。思い出したのは、インドのタージマハールで見かけた白い牛。ヒンドゥー教で牛は聖なる生き物として大切にされ、街中でも悠然と歩いているが、売り物の野菜を食べたりはせず、人と牛とが仲良く共存しているのに感心した。
 北野天満宮はさすがに混んでいた。拝殿前には10列ぐらいで少しずつ前進、前の人が長々と頭を下げたままなので、脇をすり抜け10分ほどでお参り。参道のなで牛の頭をなで、その手で自分の頭をさすっていたのは受験生だろう。
 北野天満宮では道真公と牛とのゆかりを次のように列挙している。①生まれた845年6月25日が乙丑(きのとうし)で、元服した859年2月、乙丑の夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見たことから、自ら牛を描き尊拝するようになった。②893年癸丑(みずのとうし)の9月、宴席に現れた白い小牛を館に連れ帰り可愛がるが、逃げ去る。その後、大宰府に左遷される道中、刺客に暗殺されかかった時、その白牛が飛び出し助けてくれた。道真公は「都にて流罪極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と喜んだ。
 ③道真公が大宰府で亡くなったのが903年2月25日の丑の日。④遺体を葬るため牛車で運んでいたら、安楽寺境内で牛が伏して動かなくなり、これは道真公のご遺志であろうと、その地に埋葬され、後に墓所の上に太宰府天満宮が建てられた。
 北野天満宮は菅原道真が大宰府で没した後、都で落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとして御霊信仰と結びつき恐れられたため、怨霊鎮めのため創建されたという。後に、博学の道真にならい学問の神としての信仰が高まった。日本人の神信仰の変遷としても興味深い。(6面に続く)
(2021年2月10日付 772号)

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