賛美と批判・非難とノーベル平和賞

シュヴァイツアーの気づきと実践(19)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 1953年10月にシュヴァイツァーにノーベル平和賞が授与された。それにはちょっと変則的な経緯があった。前年の1952年度には該当者が見つからず、ノーベル委員会は授与を控えた。もちろん、十分に該当者を探した結果である。候補者の中にはシュヴァイツァーの名があったが、委員会には躊躇する気配があった。彼の人道的博愛精神は理解され、長年にわたる奉仕活動は高く評価されていたのだが、授与は控えられた。どうしてだろうか。
 1913年に始まったシュヴァイツァーの奉仕活動は、40年ごろには広く知られるようになった。世界各地から医者や看護師が助力を申し出て参加した。報道関係者や一般の人びとも取材や見学に訪れるようになった。彼らによる報道は、おおむね好意的であり、中には感動的なものもあった。しかし一方に、かなり厳しい批判や非難もあった。ノーベル委員会の躊躇には、これら否定的な意見に対する配慮がうかがえる。
 この決定がされてしばらくすると、世界中のいろんな層の人たちから、委員会に非難の抗議が寄せられた。学者や政治家をはじめ、医療関係者、福祉関係者、一般の社会人や主婦、学生や小学生からも「どうしてなのか? シュヴァイツァーがいるではないか」という手紙が届いたのである。多数の厳しい意見を無視することはできない。ノーベル委員会は再考を重ね、苦肉の策として、1953年に52年度の平和賞をシュヴァイツァーに授与したのである。
 この項では、平和賞に値する功績が十分に認められなかった理由がどこにあったのかを考えてみたい。シュヴァイツァーのキリスト教信仰に関する特異性については前項でおおむね説明したので、ここでは彼の奉仕活動に関する批判や非難を、大きく3つに分けて取り上げる。
 医療活動の問題1:通常はやさしく病人に接するシュヴァイツァーであるが、ときどき自分が非常に権威のある人物のように振る舞い、現地の黒人に威圧的になる。なぜか。
 答:まず、相対的、総合的、根本的に心しておかなくてはならないことがある。それはシュヴァイツァーが活動を始めた1913年から40年ごろまで、アフリカは暗黒大陸と呼ばれ、西洋文明から非常に遅れた地域であったことだ。密林の中で、まさに原始時代とあまり変わりない生活が営まれていたのである。そこでは呪術師が権威をもって住民に君臨していた。病人に対する施療も、その権威のもとにほどこされていた。
 その頃から一部の黒人たちは文字を習い始め、西洋文明に接する機会が増えてきた。その後の20年間に、彼らは西欧諸国が数百年かけて発展してきた歴史の多くを経験したのである。多くの無理が生じたが、ガボン共和国は1960年に、近代国家として独立した。
 シュヴァイツァーは彼らの心情を理解し、病人に薬を与えるだけでなく、彼らの心をも癒しに向けて引き上げたのである。彼らの心情を理解するひとつのエピソードがある。あるとき少年が、他人の使った鍋で料理をして食事をした。持ち主が戻って「おれはこの鍋でバナナを煮て食べたのだ」と伝えた。すると少年はいきなり苦しみはじめ、身もだえして死んでしまった。彼は幼少のころから、バナナを食べてはいけないというタブーを言い聞かされていたのである。
(2021年1月10日付 771号)