「令和」に込められた思い
2019年4月10日付 750号
5月1日から使われる新元号「令和」の典拠は天平2年(730)正月13日、大宰府で行われた「梅花の宴」を記した、『万葉集』「梅花の歌」32首の序文にあることが発表されたのを受け4 月1日、楠田大蔵太宰府市長は喜びのコメントを発表した。
この「梅花の宴」を開いたのは、万葉集の選者・大伴家持の父・大伴旅人で、大宰府の長官だった彼は大納言に昇進して都に戻ることになり、大宰府の役所が管轄していた西海道(九州)の官人たちを邸宅に招き宴を開いたのである。
それを70年さかのぼる663年、唐と新羅の連合軍に白村江で完敗し、4万2千の兵を失った日本は唐の侵攻に怯えていた。それを追い風に統一国家づくりを進めたのが中大兄皇子、後の天智天皇である。
白村江敗戦後の日本
中村修也文教大学教授は『天智朝と東アジア』(NHKブックス)で、当時の日本は実質的に唐の支配下にあったという。中国・朝鮮の文献も駆使し、羈縻(きび)政策と呼ばれる唐の間接支配を受けながら、天智朝の律令制が整備されたとの説である。つまり、第二次世界大戦後の日本が、米国の間接統治の下で民主化されたのと同じことが、白村江戦後にあったのである。
日本の正史『日本書紀』は天智朝を滅ぼした天武朝によって書かれたので、不名誉な羈縻政策は隠された。天智時代の急激な唐化に対する国内勢力の反発は、開国に舵を切った徳川幕府に対する攘夷運動にも似ている。討幕が成ると、攘夷を忘れ開国に転じたのは、天武朝での律令制の進展と同じだと中村氏は言う。
白村江の戦後処理で、唐は百済と日本に対する羈縻政策を進め、665年には約2千の官僚を倭国に派遣し、667年に筑紫都督府を設置した。間接統治の始まりで、唐の官僚は大和にも進出し、都を近江に遷させた。
並行して、百済人を使って対馬から畿内に至る要所に山城を設け、烽火による通信を可能にした。山城は唐の侵入を防ぐためとされるが、軍船を防ぐには不向きで、むしろ、唐が監視と通信用に設けたとする方が合理的で、太宰府の水城は南九州からの反乱を防ぐためだという。
唐の羈縻政策が終わったのは、高句麗滅亡後、朝鮮を統一した新羅が反唐政策に転じたからである。
天武朝からは新羅と連携して唐に反抗したため、骨品制を残すような新羅的な律令制が導入されることになる。官僚制を取り入れながら科挙は実施せず、役職を家業的にしたのも、豪族の連合支配に沿う日本的受容だろう。強い新羅の存在が日本にとっては僥倖だった。確かに、唐が賠償も要求せず、低姿勢で友好を求めてきたという日本書紀の記述はおかしい。
唐の冊封を受けた新羅が高句麗を滅ぼし、唐の影響力も排除して朝鮮半島を初めて統一したのは676年。その後、再び唐の冊封を受け、中央集権国家を建設しながら仏教を保護し仏教文化が栄えるが、やがて衰亡に向かう。
日本は668年から遣新羅使の派遣を始め、672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は親新羅政策をさらに進め、次の持統天皇も亡夫の外交方針を継いだ。もっとも、対等の関係は認めず、新羅が日本に朝貢する関係をとった。梅花の宴が催されたのは、東アジアにつかの間の平和が訪れていた時で、大伴旅人らはそれを喜んだのであろう。
伝統と革新
古代の律令化と戦後の民主化を比べると、いかにも日本的な手法が似ている。一旦は受け入れ、その後、日本的なものに変容していく。明治の近代化も同じで、神武統治に戻った上で近代国民国家づくりを進め、昭和天皇は明治天皇の五箇条の御誓文をいわゆる人間宣言の根幹に据えられた。
伝統的文化とはそういうもので、古来から積み上げてきた価値を大切に守っているから、新しい時代にも柔軟に対応し、自らを変えていくことができる。厳しさを増すであろう国際社会で、新しい御代の日本もそうありたい。