征韓論から西南戦争へ、西郷の理想と現実

里見日本文化学研究所所長 金子宗德

「道義」ある国へ、悲劇の死で国民の理想に

 倒幕を果たし明治政府を樹立した維新第一の英雄・西郷隆盛は、その運営を大久保利通らに任せ、鹿児島に帰る。明治四年、岩倉具視ら政府首脳は一年半の欧米視察に出かけ、留守政府を預かった西郷は明治六年、朝鮮外交をめぐり大久保らと対立する。ついに下野し、鹿児島に帰った西郷は、明治十年の西南戦争で悲劇の死を遂げた。その経緯をひも解きながら、西郷が理想とした国から現実の日本を考察したい。(十一月十五日、東京での、にっぽん文明研究所後援の講演会より)

金子宗徳氏

個人と共同体との関係
 私は個人と共同体との関係は如何にあるべきかを問うことを自らのライフワークとしてきました。共同体には、血族共同体としての民族、地域共同体としての社会、政治共同体としての国家など様々な形があります。大学院においては近代日本政治思想史を専攻し、保田與重郎を中心とする日本浪曼派、倉田百三や有島武郎などの白樺派、西田幾多郎を中心とする京都学派、田中智學や里見岸雄、石原莞爾らの日蓮主義を研究しました。
 保田は「日本回帰」を唱えて昭和十年代に活躍した文芸評論家、倉田は『出家とその弟子』を書いた宗教的文学者、『カインの末裔』を書いた有島はクリスチャンで、後に社会主義者となります。また、京都学派の哲学者・西田は禅宗の影響を受けつつ近代西洋哲学の超克を目指し、その門下生は大東亜戦争に際して「世界史の哲学」を説きました。
 また、私が所長を務める里見日本文化学研究所を創設したのが里見岸雄、その父が田中智學です。智學は、「立正安国」という日蓮仏教の理念を近代日本社会で実現すべく、《国柱会》を創設するなど様々な活動を展開しました。そして、その両者の影響を受けた石原莞爾は、「八紘一宇」を実現するプログラムとして『世界最終戦論』を提示しました。
 これらの人物は皆、「宗教」を媒介として個人と共同体との関係を論じています。本日は、そうした観点も加味しながら、明治期の西郷隆盛について考えてみます。

明治維新の評価
 明治維新の評価ですが、肯定的なものとしては、①近代市民革命、②復古即革新という二つ。否定的なものとしては、③近代資本制国家形成、④絶対君主制国家形成というマルクス主義に基づく古典的解釈に加え、⑤大義なき権力簒奪という新たな解釈。西郷の思想を探る前に、これらの評価を概観しておきましょう。
 ①は、明治維新を封建的で時代遅れの江戸幕府を打倒した一大画期という見方。分権的な幕藩体制では西洋列強に対抗できないので天皇を中心に中央集権国家の形成を目指し、それにより成立した明治政府は、富国強兵策を取り、「文明開化」の名の下、近代化を成し遂げたとします。これは、社会の近代化すなわち合理化することを是とする考え方で、それを象徴するのが明治政府を実質的に率いた大久保利通、そして「文明開化」の理論的指導者であった福沢諭吉です。その考えは司馬遼太郎の小説に色濃く反映され、明治百五十年記念事業を行っている政府にも影響を与えるなど、今日においても明治維新評価の主流となっています。
 ②は、明治維新を近代化の出発点ととらえるのではなく、原点回帰という見方。『王政復古の大号令』に「神武創業の始めに原(もとづ)き」とありますが、我が国の理想としての神武肇国すなわち神武天皇によって確立された「国体」の原点に立ち返った出来事として明治維新を捉えます。①が未来における進歩を重視する議論であるのに対して原点回帰を重視する議論でして、「文明開化」についても「西洋化」により日本らしさが失われるとして批判的です。そして、西郷隆盛は、大久保が推進した①への抵抗者として②の象徴的存在となります。この流れは、福岡藩出身の玄洋社の中心人物であった頭山満を経て、近代右翼運動の中に今日まで連綿と継承されています。
 ③は、明治維新は封建的な幕藩体制を倒した、不徹底なブルジョワ革命に過ぎないという大内兵衛や向坂逸郎らの見方。ゆえに、明治国家そして大日本帝国はブルジョワ君主制国家であり、来るべき社会主義革命により打倒されるべきだというのです。社会主義国家を樹立するまでに必要な革命は一回であり、それゆえ「一段階革命論」を唱えました。大内や向坂は昭和二年に創刊された雑誌『労農』に拠ったので「労農派」と呼ばれ、この流れは日本社会党の左派に繋がります。
 ④は、明治維新は半封建的地主制と結びついた絶対君主制国家の形成にすぎないという見方。それゆえ、社会主義を実現するには、フランス革命に倣った絶対君主制としての「天皇制」を打倒するブルジョア革命を行った上で、さらに社会主義革命を起こすという二回の革命が必要であり、それゆえ「二段階革命論」を唱えました。これは、昭和七年から八年にかけて岩波書店から刊行された『日本社会主義発達史講座』に執筆した野呂栄太郎ら「講座派」の主張で、この流れは日本共産党につながります。
 ③や④のようなマルキストの否定論は今や主流ではありません。最近の流行は、⑤です。これは、「尊皇倒幕」などと御立派なことを云うが、結局のところ薩長のテロリストによる権力簒奪にすぎないという見方。その代表は、『明治維新という過ち』シリーズの原田伊織氏や戊辰戦争に関する著述の多い星亮一氏ですが、原田氏は彦根、星氏は東北地方の福島と明治維新で「負け組」となった地域の出身です。
 この考えは靖國神社の御祭神をめぐる議論とも関係し、靖國神社宮司になった徳川家子孫の徳川康久氏が「旧賊軍の人たちも祀ったらいいのではないか」と発言して問題になったことは記憶に新しいですね。因みに、私も東北地方(現在の岩手県花巻市)にルーツを有する人間ですから、東北諸藩に対する薩長とりわけ長州の仕打ちに納得できぬ点はあります。けれども、明治生まれの祖父から恨みがましいことを聞いたことはありません。加えて、この見方には、本来あるべき日本国の姿すなわち「国体」に関する議論が欠如していますし、徳川慶喜や小栗忠順らによる幕府主導の漸進的な改革を否定した独善的な体質が明治国家ひいては大日本帝国に受け継がれ、大東亜戦争の敗北につながったという主張は論理の飛躍としか云いようがありません。

西郷を問い直す
 最近、幕末維新史の研究が進み、西郷の人物像イメージも塗り替えられつつあります。決定版伝記と目される家近良樹氏の『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)には、過剰な神格化を戒める記述が見られます。史実を無視すべきではありませんが、思想史家として言わせて頂くならば、史実でなくとも物語として信じられ、それに触発されて自らの思想を紡いだのであれば、それは尊重されるべきものです。
 多くの宗教家が西郷を絶賛していたこと、明治維新の意義を肯定しながらも、現実の日本社会に飽き足らない者にとって、西郷は自らの思いを仮託し得る人物であったこと。この事実を尊重すべきです。
 例えば、頭山満の流れを汲む大東塾を開いた影山正治―神社本庁の創設に関わった葦津珍彦の同志としても知られる―は、昭和十八年に出した『西郷論の改變』で次のように記しています。
 「かくて明治十年の役は、尊攘派最後の決戦であったとともに正統國學派最後の決戦であった。敵とするところは單に大久保等数個の人間でなく、文明開化の精神と潮流であった。國の内に對する攘夷の實践にほかならなかつたのだ。(中略)國學の精神に立つ維新派として西郷黨のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶體絶命の戰ひに斃れ伏したのだ」
 明治維新の最大の立役者でありながら、明治政府に命懸けで異議申し立てをし、壮絶な最期を遂げた西郷に自らを重ね合わせ、再度の「復古即革新」を目指す決意を語っています。
 このように、誰かに言寄せて日本社会の堕落を批判しようとする者にとって、西郷ほど相応しい人物は居ないのです。
 そうしたことも踏まえつつ、西郷を巡る史実と物語に目を配りながら、私なりの西郷像を描いてみたいと思います。
 まず最初に、『西郷南洲遺訓』の中から幾つか紹介しましょう。
 「道は天然自然の物にして、人はこれを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」
 大誠実の人という西郷のイメージを象徴する言葉です。
 確かに、勝海舟との交渉で実現した江戸城の無血開城や降伏した庄内藩に対する寛大な措置などは、この発言通りの振る舞いです。後者については、知らない方も居られるかもしれないので補足しておきましょう。大政奉還後、江戸市中の取締りを命じられていた庄内藩は治安保持のために江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたことがあり、報復を覚悟していました。ところが、西郷の指示により、降伏に際しては藩主が辱められることなく家臣は帯刀を許されます。
 新政府軍を率いて江戸に進発するまでは、京都を中心とする政界では知られていても、世間的には無名だった西郷の存在が、これらのエピソードを通じて人々に知られるところとなり、誠実で度量の大きな人物だというイメージが確立します。
 けれども、そうした側面が西郷の全てではありません。小御所会議で徳川慶喜に官職の辞任と領地の返上を迫り、恭順しなければ徳川家を滅ぼすと断言するなど、西郷には冷徹な側面がありました。また、自分を見出した島津斉彬の死後、薩摩藩の実権を握った弟の久光とは人間的にそりが合わず、一時的に妥協することはあっても最後まで仲が悪いままでした。
 後でお話しする征韓論に関係するものとしては、次のような発言があります。
 「正道を踏み国を以て斃るゝの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に委縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、遂に彼の制を受るに至らん。」
 「談国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるゝに當りては、縦令(たとひ)国を以て斃るゝ共、正道を践(ふ)み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を談ずるを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戦の一時を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。」
 ここからは、極限状態においては「戦い」が必要だという考え方が見て取れます。家近氏は西郷を「戦好き」と評していますけれども、武断的なところがあるのは確かです。

「征韓論」のいきさつ
 明治元年(一八六八)十二月、「王政復古」を通知し、外交関係の樹立と自由貿易の開始を求める文書を、新政府は対馬藩を介して李氏朝鮮に送ります。ところが、当時、李氏朝鮮は、「皇」や「勅」という支那の皇帝のみが用いる文字があることを理由に、文書の受け取りを拒否し、西洋諸国と外交関係を結んだ日本を野蛮な国だと蔑みました。王政復古した日本の外交文書に「皇」や「勅」の文字があるのは当然です。けれども、天子(皇帝)を戴く中国(中華)が世界の中心で、その周りにある国々を野蛮と見なす中華思想に凝り固まっていた李氏朝鮮は理解出来ませんでした。それだけならまだしも、中華思想を受け入れないからと云って日本を愚弄したわけです。
 当時、朝鮮の実権を握っていたのは国王・高宗の父・大院君で、朱子学の教えを守り、邪悪な西洋思想を排除するという「衛正斥邪」を唱え、西洋列強および西洋と誼を結ぶ日本を敵視していました。また、これまで旧政権たる徳川幕府と友好的な外交関係を結んでいたという経緯があり、さらには成立したばかりで権力基盤の確立していない新政府が交渉の相手たり得るか疑っていた節もあります。
 これに対して明治政府には二つの考え方がありました。①天皇の出す国書を携えた正式な使節を派遣すれば話に応じるのではないかという考え方と、②これまで通り対馬藩を介して交渉を継続すべきだという考え方です。①を採用した場合、朝鮮が要求を拒絶した場合に国の体面を守るため開戦に直結しかねませんが、当時の日本には朝鮮を制圧する力はありませんでした。②を採用した場合、開戦は避けられますが、朝鮮との貿易拡大により財政危機を克服しようとしていた対馬藩は大きなダメージを受けます。そのため、対馬藩内では早い時期から征韓論が主張されていたのです。現在同様、対馬の経済は朝鮮半島と密接な関係があったわけです。
 とは言え、当時の明治政府にとって、朝鮮との関係ではなく、ロシアとの関係が最も大きな外交課題でした。具体的には、樺太を巡る問題です。日露両国の主権が及んでいた樺太では、日本人とロシア人、そして原住民であるアイヌとの間で摩擦が生じていました。結果として、明治八年(一八七五)五月に樺太・千島交換条約が締結され、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島列島をロシアが日本に譲渡することなどが取り決められます。
 話を対朝鮮外交に戻します。明治四年(一八七一)七月、廃藩置県により対馬藩が廃止されると外交の窓口は外務省に移り、釜山にあった対馬藩の出先機関・草梁倭館は大日本公館となります。これは、長崎にあった出島の数倍という広さで、数百人の日本人が住んでいました。こうした朝鮮に在留している日本人の権利を守るという点からも国交樹立は必要であり、外務省は妥協点を見いだすべく使節を派遣しますが、朝鮮側は自己の主張を譲りません。さらに同年十一月から、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通ら政府首脳が欧米歴訪に出掛けることになります。一方、西郷は留守政府を預かることとなりましたが、あくまで留守政府である以上、外交を始めとする重要課題は岩倉らの帰国まで棚上げにするとの申し合わせがなされました。
 けれども、廃藩置県の絡みで琉球問題が浮上します。薩摩藩の従属国であった琉球は、廃藩置県により鹿児島県の従属国となります。国が県の付属国であるという状態は不正常ですから、明治五年(一八七二)一月に琉球王国を廃して、中央政府直轄の琉球藩とし、国王の尚泰を華族に列しました。琉球王国は清にも服属していたので、琉球の法的地位は日清の外交問題となります。その上、琉球王国の統治下にあった宮古島の島民が前年の十二月に台湾に漂着し、同地の原住民に殺害されていたことが帰国した生存者の証言により明らかになりました。
 明治六年(一八七三)三月、外務卿の副島種臣が清国に渡ります。主たる目的は、明治四年(一八七一)七月に締結された日清修好条規の批准書を交換することでしたが、併せて朝鮮・琉球・台湾を巡る両国の懸案についても協議しました。その結果、朝鮮の開国や琉球の日清両属状態については解決しませんでしたが、清国は台湾原住民を統治権の及ばぬ「化外の民」と呼びました。
 同年五月、釜山の大日本公館の壁に日本を「無法の国」などとする落書きがなされるだけでなく、日本商人の活動が朝鮮の厳しい取り締まりを受けているとの報告が届きます。自由貿易が認められていない情況における商人の活動は密貿易ですが、公館で暮らす数百人の日本人からすれば必要不可欠な存在でした。
 この報告を受けた閣議で、板垣退助は国交樹立のために軍事的圧力を加えるべしと主張しました。これこそ、文字通りの「征韓論」です。
 これに対して、西郷は軍隊を派遣すれば朝鮮は不義の侵略だと捉えかねないので、自分が使節になり、朝鮮政府を説得するのが一番の良策だと主張します。その上で、朝鮮が使節を殺すようなことがあれば、正々堂々と軍隊を派遣すれば良いとも述べます。これは「遣韓論」と云うべきであり、板垣の「征韓論」とは区別すべきです。これに対して、三条実美は兵隊を随行させるよう提案しますが、西郷は拒否します。こうした議論を受けて西郷の使節派遣が閣議決定されたのですが、大隈重信は、国家の重大事なので岩倉らの帰国を待ってから決定すべきだと反対しました。
 西郷が「遣韓論」を唱えるに至った経緯については諸説あり、真相は不明です。西郷は豪放磊落なイメージがありますが、実は準備怠りなく、念入りに根回しをするタイプでした。ところが、「遣韓論」の提唱は非常に唐突で、周囲も真意を測りかねたようです。権力者が私財を蓄え妾を囲うなど弛緩し、理想が失われていた国内を引き締めるべく、他国との対立を演出しようとしたとか、朝鮮の背後に位置するロシアを意識していたとか、体調の悪化を背景とする戦死願望の高まりとか、様々な解釈があります。ただ、いきなり朝鮮に派兵しようという考えでなかったことは確かです。
 一度は決定した西郷の使節派遣ですが、帰国した岩倉と大久保の工作により覆され、明治六年(一八七三)十月、西郷は下野します。自らの思いを明治天皇に上奏するなど、岩倉や大久保に対抗する術はあった筈ですが、何故か西郷はそうしませんでした。一方の岩倉は、天皇に対する働き掛けをしています。先ほど申し上げた通り、西郷は入念に根回しを行うタイプであるにもかかわらずです。家近氏は、そうした判断ができないくらい体調が優れなかったのではないかと推測しています。
 いずれにせよ、この政変により、政府中枢から国家の体面を重視する「遣韓・征韓派」が一掃され、殖産興業を重視する「内治派」が実権を掌握しました。別の言い方をすれば、「復古即革新」派が負け、「近代市民革命」派が勝ったわけです。
 
純粋な維新の象徴
 鹿児島に帰った西郷は、吉野開墾社を創設して開墾を始めたり、士族の軍事教練や教育のために私学校を創設したりと、「質実剛健」の精神に基づく様々な活動を展開します。一方、「文明開化」の潮流に対しては「軽佻浮薄」なものであると批判的でした。『西郷南洲翁遺訓』に、次のような一節があります。
 「文明とは道の普く行はるるを、賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分からぬぞ。予、甞て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其の人口を莟(つぼ)めて、言無かりきとて笑はれける。」
 明治七年(一八七四)五月、明治政府は宮古島の島民を殺害したことに対する報復として、台湾に出兵します。台湾蛮地事務都督に就任したのは隆盛の弟・従道で、その兵員には隆盛を通じて鹿児島県から集めた部隊も含まれていました。従道は台湾出兵が日清戦争に発展することを期待していたようですが、西郷も弛緩した国内の雰囲気を引き締め、鬱積した士族の不満を解消できるならとの考えから協力したようです。けれども、大久保の尽力により、両国は開戦に至らず、清国が宮古島の犠牲者に弔慰金を支払うことなどで合意します。これにより、清国は宮古島を含む琉球が日本領であることを認めたことになります。
 さらに、明治八年(一八七五)九月、江華島事件が発生します。これは、仁川沖の江華島周辺を測量していた日本の軍艦に対して朝鮮側が砲撃し、さらに応戦した日本側が砲台を破壊した事件です。この事件について、朝鮮側の対応を遺憾としつつも、朝鮮側の承諾を得ずに測量を行った日本側の対応についても批判しています。
 これは、使節派遣を巡る論理と同じく、たとえ武力衝突に至るにしても、まずは測量の許可を求めるなど道義を踏まえねばならないということです。「未開蒙昧な国」に対しても「慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可き」という、『遺訓』で語られている姿勢は、ここでも一貫しています。もっとも、この事件を契機に日朝修好条規が締結され、国交樹立という明治初年以来の懸案が解決します。「征韓論」を巡る対立が解消した以上、西郷が政府に復帰する可能性もありましたが、西郷は鹿児島から出ようとしません。

西郷神話の成立
 「遣韓・征韓派」の敗北は、士族の反政府感情に火をつけました。明治七年(一八七四)二月には西郷と共に下野した江藤新平を中心とする佐賀の乱が起こり、明治九年(一八七六)十月には熊本で神風連が蹶起し、旧長州藩や福岡県の旧秋月藩でも呼応する動きがありました。けれども、西郷は、こうした士族反乱に同調しませんでした。
 にもかかわらず、明治十年二月になって、西郷が私学校生徒を率いて挙兵したのはなぜなのでしょうか。明治政府が、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を秘密裏に搬出したからとか、旧薩摩藩出身の警官たちを西郷暗殺のために帰郷させていたことが露見したからなど諸説ありますが、決定的な理由とは言い難いです。
 西郷は大軍を率いて進軍して熊本城を包囲しますが、これは戦術として合理的だったのでしょうか。軍艦で長崎に上陸すべきであったとか、さらには大阪か東京を目指せば局面が変わったのではないか、といった後世の評があります。結果的に云えば、西南戦争において西郷は失策を重ね、遂には城山で自刃します。
 けれども、そうした悲劇的な最期が西郷神話の成立に繋がります。
 西南戦争直後、西郷は「賊臣」とされましたが、判官びいきの国民感情に加え、明治政府に対する不満を背景として、西郷再評価の機運が生まれます。さらに、明治二十二年(一八九九)二月の大日本国憲法の発布に伴って特赦が行われ、西郷は公的に復権します。
 その結果、大日本帝国は西郷ら薩長の志士の英雄的な戦いにより生まれたという歴史観が国民に定着するようになったのです。さらに、勝海舟の『氷川清話』や庄内藩士による『南洲翁遺訓』を通じて高潔な西郷という人物像が確立し、そうした西郷を引き合いに出すことで、現実社会の醜さを批判するという言説が見られるようになります。

今日の視点から
 こうした西郷を巡る史実と物語から、私たちは何を汲み取るべきでしょうか。
 それは、一言で言えば「道義」です。
 いわゆる徴用工問題などを契機として韓国との関係が悪化していますが、国家としての利益や威信が損なわれたなら断固として戦う覚悟を持ちつつも、「慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く」という西郷の姿勢を忘れてはなりません。
 「道義」の重要性は、外交に限ったことではありません。
 現代人は物質的なものに大きなウェイトを置きがちですけれども、それで良いのでしょうか。先にも紹介しましたが、西郷は「文明とは道の普く行はるるを、賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず」と、物質的なものを超えた「道義」の重要性を説いています。
 物質文明の問題が大きくなっている今日、西郷が示した「道義」の意味は重要性を増す一方です。単に再評価するだけでなく、それを如何にして実践していくのか、私たちに課せられた課題は大きいと言わねばなりません。
(2018年12月10日付 746号掲載)

 かねこ・むねのり 昭和50年愛知県生まれ。京都大学総合人間学部在学中に「国家としての『日本』―その危機と打開への処方箋」で第3回読売論壇新人賞優秀賞を受賞。同大学院人間・環境学研究科博士課程修了退学。現在は里見日本文化学研究所所長、月刊『国体文化』編集長、亜細亜大学非常勤講師、日本国体学会理事。著作は『安全保障のビッグバン―第3回読売論壇新人賞入選論文集』(共著、読売新聞社、1998年)、『「大正」再考―希望と不安の時代』(共者、ミネルヴァ書房、2007年)、『保守主義とは何か』(共者、ナカニシヤ出版、2010年)など。