オウム真理教事件の教訓

2018年7月20日付 741号

 平成七年の地下鉄サリン事件などで二十九人もの犠牲者を出した一連のオウム真理教事件をめぐり、裁判で死刑が確定していた元代表の麻原彰晃(本名・松本智津夫)ら七人の死刑が七月六日に執行された。
 高学歴の若者たちが麻原元代表の教えに帰依するあまり、非常識な事件を起こすに至ったことから、一部の評論家は大学当局のカルト対策を促す趣旨の発言をしていた。しかしそれは、民主主義の根幹である信教の自由を侵害し、さらに貴重な日本人の伝統文化を喪失しかねない危うさを伴う。むしろ、本質的な対策は、大学以前の学校教育における、宗教的情操と宗教リテラシーの育成にあるのではないか。
 生命への感動こそ
 宗教的情操の始まりは生命の不思議に対する驚きであろう。それは、縄文時代の土偶の多くが妊婦をモデルに作られていることから推測できる。また、早逝した子供の足あとの粘土板が物語るのは、愛する者の死に対する悲しみと再生への切なる祈りである。死を思うことができる動物は人間のみであり、宗教学者らはそこに宗教心の芽生えを見ている。
 もっとも、宗教という言葉自体、近代になって用いられるようになったものであり、古代においてはむしろ知の最先端と呼ぶのがふさわしい。
 例えば、二十代の空海は、室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んでくる不思議な体験をし、その意味を求めて唐に渡り、密教の奥義を授かった。そして大宇宙、あるいは大日如来との一体感を表現する言葉、より正確なツールとしての両界曼荼羅を手に帰国し、日本仏教の極致とも言える真言密教を開いたのである。
 その空海にとって、自身の内面を語る言葉と、最先端の土木工事技術の言葉とは、いずれも最先端の知として統合されていた。宗教が人間の内面だけを扱うものとされたのは、近代以降のことである。
 つまり、人類の知を発展させるには、自然や人とのかかわりにおいて、感動的な体験が不可欠であり、何より重要なのは感動できる感性なのである。成長期の子供は、生の勢いが強いと同時に、死に対する関心も強い。その落差が子供を深い思索へと導き、脳細胞をより複雑に発展させるのである。
 オウム真理教に関連付けて言えば、本来の瞑想を知り、少しでも宇宙や自然との一体感を体験していれば、薬物を使った神秘体験などに引かれることはないだろう。ヘッドギアなど極めて人工的なものであり、それによって得られた体験で自身の心の奥がわかるはずがない。仏像と対峙し、鎮守の森で昆虫と遊び、あるいは祭りの輪の中で楽しむ。そうした積み重ねにより宗教リテラシーが形成されるのである。
 大学生の時代は、そうした体験と知識を自分なりに統合する貴重な時期である。その貴重であるが故に微妙な時期に、大学当局の合理的、世俗的介入を助長すれば、深みのない軽薄な人格になってしまうのではないか。
慈愛の絆を
 人間にとって宗教が生きる力であることは、東日本大震災の経験からも共有されている。伝統的な祭りが萎えそうな人々の心をいかに勇気づけるか、私たちは体験してきた。
 それは、古代に稲作を中心に形成されてきた祈願と祭祀の仕組みが、知と技術の発展を取り込みながら、人々の生き方、共同体の在り方として、今日まで発展してきたからである。
 個が優先される余り、人間関係を無機質な砂のようにしてしまいかねない今の社会において、慈愛に基づいた絆が保たれているのは、古来からの宗教的伝統が息づいているからである。そのことに思いを馳せ、とりわけ宗教者たちの奮起を期待したい。