大師信仰に見る「水と宗教」
2023年6月10日付 800号
香川県まんのう町にある国内最大級の農業用のため池「満濃池」では毎年、空海の誕生日とされる6月15日に、水門を開けて田植えに必要な水を送る「ゆる抜き」が行われる。池を管理する土地改良区の人たちなどが参列し、池のほとりにある神野神社の神事に始まり、豊作を祈ってから、神職を先頭に取水塔まで進み、代表者が水門のハンドルを回すと、放水口から大きな音を立てて毎秒5トンの水が流れ出す。その瞬間を待っていた見物者からは大きな歓声と拍手が上がる。
かつては「ゆる」という木製の栓を抜いて放水したことから、水門を開ける作業は「ゆる抜き」と呼ばれ、香川県西部では田植えが本格化する初夏の風物詩である。
西暦700年ごろに築かれた満濃池は、香川県の貴重な水がめとして利用され、朝廷の要請により弘法大師・空海が改修工事を指揮したとされる大師信仰の場の一つで、国の名勝にも指定されている。
水と宗教のかかわり
日本各地には、弘法大師が巡錫の折、水に不自由な土地に同情した大師が、錫杖で地を突いて清水を出したという伝説の水「弘法水」が多数ある。喉が渇いた大師が老婆に水を所望したところ、老婆が遠方から水を運んできたお礼に、大師は杖で水を湧出させたという話も多い。主人公が行基や最澄などの場合もあり、命に直結する水は、古くから宗教性をもって語られてきたのであろう。
中国最初の王朝・夏(か)の禹王(うおう)は、黄河の治水を成功させたことで王位に就いたと伝えられ、水の神として崇められてきた。高松市の栗林公園の一角にも禹の名を刻んだ石碑があり、禹王を祀る廟や祠、禹の像や名を刻んだ石碑は全国に133件あるという。
奈良県には四つ水分神社、宇太水分神社、葛木水分神社、吉野水分神社、都祁水分神社があり、中でも吉野水分神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。「みくまり」とは「水分 = 水配り」の意味で、流水を分かち配ることを司る天之水分神が祀られている。奈良盆地は古くから干ばつや水害に悩まされてきたので、水分神が東西南北に鎮座するように祀られたのであろう。
二毛作が盛んな香川県では、晩秋から初冬にかけてまいた麦を5月末から6月初めにかけて刈り取り、その後に稲の苗を植えるので、農家にとって6月は最も忙しい。さぬきうどんは金比羅参詣絵図にも描かれ、江戸時代から広まった。米は年貢に取られるので裏作に小麦を作り、食料不足を補ったのである。瀬戸内では古くから塩が造られ、出汁の元になる小魚の「いりこ」が取れたのも加わり、讃岐の名物となった。そのうどんも空海が唐から伝えたとの話が地元では通説で、大師信仰の中核になっている。
ところがその小麦が、今年は異常に倒伏している。大型の台風2号が来る前から、田んぼの広い範囲で倒れていたので、風雨のせいだけではない。県の農業改良普及センターの担当者によると、春先の気温が高く、早く成長したのが大きな原因だという。水だけでなく気温も自然の大きな要素である。
ところで、空海が弘法大師の大師号を賜るのに決定的な役割を果たした、讃岐生まれで東寺長者の観賢にも水の話がある。
観賢が生まれたのは853年、今の高松市西春日町で、幼名は阿古麻呂。京都から弟子を探しに讃岐に来た醍醐寺開祖の理源(聖宝 )が、遊んでいた子供たちに手洗い水を求めると、「汚れた水しかないよ」と言うので、理源が「浄不浄はないから、不浄な水でも構わん」と言うと、阿古麻呂は「それならなぜ、お坊さんは手の不浄を洗うのですか」と聞いた。利発な質問に驚いた理源は、この子こそ弟子にふさわしいと思い、両親の許しを得て京都に連れ帰ったという。
また、観賢大徳と呼ばれるようになってから生誕地に帰ると、干ばつで稲が枯れそうになっていたので、錫杖で出水の加持をすると清水が湧きだし、干ばつの悩みが解消されただけでなく、以後、当地には清水を使う製紙工場が建てられたという。
田んぼダム
近年、異常気象のためゲリラ豪雨などによる水害が頻発するようになった。河川の洪水を防ぐには、流域全体で取り組むことが重要で、農林水産省では水田の持つ貯水機能を強化して、豪雨による洪水被害を軽減する仕組み「田んぼダム」を進めている。
古来、水田には稲を育てるだけでなく、雨水を溜める機能があった。それにより雨水が一気に川に流れ込まず、洪水になるのを防いできたのである。先人が自然に学びながら蓄積してきた経験知を、科学的な目で再評価し、自然との共生を深めていくところに農業の楽しさもある。これも大師信仰の現代的展開と言えよう。