『雲の墓標』阿川弘之(1920~2015)

連載・文学でたどる日本の近現代(37)
在米文芸評論家 伊藤武司

阿川弘之

広島に生まれ
 阿川弘之は国際連盟が発足した1920年、広島市で生まれた。1600万人の戦死者を出した第一次大戦後の新しい世界秩序が始動した年で、20年ばかりの短い平和の後、再び暗雲が立ち込める。11歳で満州事変が勃発し、その2年後に日本は連盟を脱退、2・26事件を経て17歳の37年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争へと拡大していく。40年には日独伊防共協定が調印され、阿川の青春は第二次世界大戦につき進む時代相の中にあった。
 高校の文芸部で志賀文学と出会い、同人雑誌の同人になった阿川は、東京帝大在学中に太平洋戦争が勃発すると、海軍の兵科予備学生を志願し、佐世保の海兵団に入団する。台湾の潜航空隊で教育を受け、久里浜の通信学校に赴任。大尉となった阿川は中国・漢口の傍受通信隊で終戦を迎える。復員した郷里の広島は焦土と化し、生家は跡形もなく消えていた。幸いに両親は無事で、すべてがゼロからの出発であった。青春を謳歌する時期が戦争の時代に重なった経歴は、彼の人生と創作の下地に避けがたく反映されている。
 25になった阿川は上京して志賀直哉の最後の内弟子となり、作家になることを決意する。28歳で結婚し、三男一女をもうけ、長男・尚之は大学教授で弁護士、長女・佐和子はTVキャスター・女優・エッセイストとして活躍している。
 デビュー作は短編『年年歳歳』で、復員列車に揺られて帰った焼け野原の広島で父母と再会する話。その後、雑誌に発表した『あ号作戦前後』『管弦祭』が芥川賞候補となり、これらをとりいれ1952年に出した長篇伝記小説『春の城』は読売文学賞を受賞した。以後、海軍をテーマにした長篇の記録文学・伝記に優れた才能をみせ、短編の創作、旅行記も戦争に関係している。阿川は同時期の純文学の作家や、戦争世代である安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作らと共に「第三の新人」と呼ばれるようになる。

特攻隊を描いた名作
 戦争物の『春の城』を引き継いだ35歳での創作が1956年の名作『雲の墓標』。特攻隊員の訓練を重ねる主人公の手記で、阿川の代表作となり、翌年映像化された。
 『雲の墓標』は、広島の海兵団に入隊した学徒出身兵の「わたし」吉野次郎と藤倉、坂井、鹿島らが中心で、主人公は吉野、準主人公が藤倉と鹿島。繰り上げ卒業した学徒兵は学校別に分けられ、正式な任務が与えられるまでの2か月半を練兵場で過ごす。
 吉野たち京大の分隊員は「水兵服」「純白の作業衣」を支給され、「貴様」「俺」「お前」といった慣れない海軍用語を使いながら、「カッター撓漕」「天突き体操」をし、「ハンモック」で寝る「釣床教練」などを体験する。吉野は「此のあたらしい社会の言葉と秩序にしたがって、自分を習熟させ成長させてゆかねばならぬ」と思うのだが、軍隊生活の高揚感に反比例するように、学業への未練・父母への思慕もあり、正直なところ、「奈落へ突きおとされるような淋しさと焦燥とで、風船のように委んでしまう」のであった。心に湧きあがる思いを、学徒兵たちの遺した日記や手紙・葉書などにおりまぜて創作したのだろう。
 昭和19年1月7日、岩国行軍で入団後初めて外界の空気にふれる。ミッドウェー海戦を転機に、戦況は日本に不利となる。吉野は「どうしてこんなに腹が空くのだろう」と自問する。「常に食いもののことばかり考え」、「ぼたもち」「豆大福」などや、玄米食が毎日では「白く光っている炊きたての白米」が恋しく、「高貴な精神」と「動物的なむき出しのいやしい」とが隣り合わせの毎日だった。外界とのルートを通じて「乾柿」や「味噌煎餅5枚」が密かに兵たちに配給され、戦争末期には風紀がみだれ「機密保持」さえ「無頓着」になった。
 2月20日、吉野らは「土浦海軍航空隊」に配属される。錬兵場での教育主任の訓話は、「予備学生の評判は中央においても各実施部隊においてもきわめてわるい」とのこと。軍歌を歌い、初めての滞空体験をする。気象学・艦型識別・航空兵器の講義を受け、相撲や棒倒しの野外演習をする。
 6月3日には「出水海軍航空隊」に移り「滑空」「慣熟飛行」を訓練し、「モールス」通信の特訓を受ける。起床ラッパとともに「行動はすべて早がけ」、「死とつねに切線で接触している」飛行機乗りにとって「飛行機が…生活のいっさい」という厳しい日課の連続となる。
 吉野の親友で文学を専攻し、万葉の詩歌をそらんじる藤倉は、「俺はもともと戦争はきらいだが、とりわけ此の戦争は、どこか根本的にまちがったものがあるような気がしてならぬ」と語る。恩師に宛てた長文の手紙で藤倉は、「軍隊生活の孤独」を「身の危険をかんじながら」記した。それは「何百何千の人間の裸の肉体に、日々夜々肩を接して、にぎやかに、ときには騒々しく、いそがしく暮らしながら、…自分のこころがどこへもしかとは結ばれず、ただの一度も自分の本心を深く告白したことがない」という寂寥感であった。やり場のない葛藤や胸のうちを恩師に告白せざるを得ない若者の心情がにじみでている。
 ミッドウェー海戦、ソロモン海の空戦で空も海も主力の戦力を失い、「友も自分も誰も彼も、すべて死ななくてはならぬという状況が、こんご私たちの運命になるだろう」と「身の危険」をかえりみず「敗戦」に触れ、「この戦争は日本の負けにおわるだろうと、私はこのごろある程度確信するように」なったと言った1年後、飛行訓練中死んでしまうのだ。
 軍隊内の状況は「なにか事があるごとに、死ね死ねと教えられ」、総員「ビンタ」を喰らい「活を入れられる」。「敵の圧倒的な火力のまえに」旧式の装備で激しい野外演習・「陸戦教練」をする不条理。飛行訓練中に搭乗員が飛び降り自殺し、実戦配備された「銀河」は粗悪な燃料や不注意から幾度も事故を起こし、搭乗員や整備員たちの死傷が続く。
 10月13日「宇佐海軍航空隊」へ移動。フィリピンのレイテ湾に「敵の大機動部隊」が集結し、25日「空襲警報が出る」。11月に入り「飛行作業」が無期限停止。「神風特別攻撃隊」「人間魚雷・回天」の話を聞く。実兄がテニヤンで玉砕し、12月には新聞でB29の本土空襲を知る。昭和20年3月24日「敵沖縄に来襲…特攻出撃の時がちかづいて来た」。4月6日坂井機が特攻出撃。6月末、「木更津海軍航空隊」へ移動し、7月9日、吉野は「特攻隊の一員として出撃」する。
 日記体の『雲の墓標』に大岡作品の鬼火のような妖美はないが、主人公の苦衷やわだかまりが時とともに萎え、死を冷静に受容してゆく純なる様が伝わってくる。
 作品の最後は、両親と鹿島宛の二通の遺書で描かれ、一人生き残った鹿島の挽歌「海よ 海原よ 汝の墓よ ああ湧き立ち破れる星雲の下 われに向ひてうねり来る蒼茫たる潮流よ…真南風(まはえ)吹き 海より吹き わがたつ下に草はみだれ その草の上に心みだれ すべもなく 汝が名は呼びつ 海に向ひて」の詩で結ばれた。天空のかなたに散った吉野や若き勇士たちの魂を慰めるとともに、著者の悲哀の想いを鎮める表白でもある。

生涯の戦争批判
 戦後25年余、阿川は江田島の元海軍兵学校跡を訪ねる。旧兵学校の面影のある敷地での海上自衛隊の幹部候補生学校の自由・民主主義的な訓練を、「瀬戸内海の朝凪のように、まことにトロリトロリとした」整列ぶりと批評。対照的に旧海軍で培われた厳しい訓練に、すてがたい伝統と気風があったのを懐古する。その象徴的な美点を、当時の兵学校には「一種ストイックな、すがすがしい厳格さ」であったとし、かつ時間厳守の習慣が自身の生活の一部になったという。自衛隊の上官たちは旧海軍の伝統・栄光に「誇りを持て」と幹部候補生に教えるが、「いたずらに過去の偉大を語るだけでは、どんなにいい結果も生まれては来ない」と語気を強める。戦争を直に味わった人ゆえの至言であろう。
 戦争はあらゆる意味で悲惨で、著者は生涯、戦争批判の姿勢を崩さなかった。しかしそれは、終戦後の野間宏の『真空地帯』や大西巨人の『神聖喜劇』、五味川純平の『人間の条件』などの左翼的な反戦ではない。戦争全般に対するより深慮や哀惜の情から発するもので、その感情は『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』で凄惨な戦闘や人間の限界状況をえぐりだした記録文学の達人・大岡昇平と共通している。
 1971年の『私のなかの海軍豫備學生』や『日本海軍に捧ぐ』は、戦争作品の集大成と言えよう。対米戦争は「理性や常識の喪失」した「狂乱の時代」で、「負けるに決まった戦争に、陸軍にひきずられて突入したのは海軍の悲劇であった」と回顧。
 陸軍を批判し、海軍に温度差のある観点から、阿川は『軍艦長門の生涯』や三人の海軍提督の長篇伝記物を書き上げる。国家の中枢で戦争の命運を采配するエリートたちも、軍人以前に一個の人であり、彼らが苦悩をのりこえて困難な決断を下す様を逸話をまじえドキュメント風に描いている。
 40代の筆力で書き上げた『山本五十六』では人間味にあふれ部下思いの山本を表出し、その人柄には目からウロコの思いになる。戦死した息子を描いた『海軍主計大尉小泉信吉』の小泉信三は本作を推薦している。
 二作目の『米内光政』は58歳の作。地味な経歴を踏んで提督になった米内を山本五十六は尊敬していた。寡黙な米内は三国同盟や対米開戦に反対で、海軍大臣に就任すると本土決戦論にも強く反対する。不穏な時流に流されず、深い見識をもつ平和主義者を彫像している。
 日本文学賞を受賞した『井上成美』では、早期の終戦を主張し、終戦後は横須賀の寒村に隠棲して聖書と讃美歌を傍らに過ごした、潔い身の振り方の井上が描かれている。74歳での長篇『志賀直哉』は、出生から臨終までの志賀の生涯を、人生観、作品評と背景、エピソード、交友関係などを引き、読者に話しかけるような文体で綴る。

乗り物好き
 阿川は色々なエピソードの持ち主で、恩師の志賀に似て、言葉づかいや厳しい躾で子供たちに接した偏屈なカミナリおやじであった。マルチ活動をしている佐和子に、強烈な小見出しが並ぶ回想録『強父論』がある。妻に対し時たま手をだす旧いタイプが、ロングセラーの児童文学『きかんしゃやえもん』を書いたり、グレアム・グリーンの児童書を翻訳したのだから人は分からない。本心では妻を愛し、子供の世界に憧憬する優しさと羞恥心の人柄であったと信じたい。
 根っからの乗り物好きで旅行が趣味。自動車でアメリカ大陸を横断し、東南アジア、ヨーロッパ、ソ連、南米、アフリカなど旅し、鉄道・自動車・飛行機・船全般にわたるオタクであった。乗り物・旅行の著作は『お早くご乗車願います』『なかよし特急』『きかんしゃやえもん』『空の旅・船旅・汽車の旅』絵本『へるこぷたのぶんきち』『ヨーロッパ特急』『乗り物紳士録』など。『ぽんこつ』『ぽんこつ・ぱとろうる』は、自動車の解体作業でタガネとハンマーでたたく音「ぽん、こつん。ぽん、こつん」の擬音語で、阿川の作品をきっかけに世間に広まったという。
 旅行紀行『南蛮阿呆列車』のシリーズは人気を集めた。機関車の種類から時刻表への興味をはじめ、駅舎の見聞、路線わきの標識、食堂車で摂る食べ物を話題にひたすら汽車で走る。ユーモア、滑稽、ギャグ、ダジャレ、茶目っ気のウエットと愉快な会話が満載で、読者も楽しくなる。
 「幸せに感じることは」との問いに「食いたい時に食いたいものが食べられること」と答えたのは、戦時中の食糧難を体験した人ならではの率直な気持ち。「戦争が多少ともいわゆるカッコいいのは、兵隊さんがちゃんとした制服を着て腹いっぱい食えている間だけ」で、つまり「長い絶望的な飢え」「食べものの乏しかった」時代を通過した人の言葉である。娘に「食べ物の味の分かる男と結婚しろ」と言うくらい飲食にこだわりをみせ、エッセー集『アンソロジーお弁当』は有名人41人の弁当の話である。
 これらはアニメやコメディとして放映され、阿川家をモデルにした『犬と麻ちゃん』『末の末っ子』もTVドラマ化。父の影響で佐和子も食物・料理のエッセーを著し、父娘の書簡集『蛙の子は蛙の子』がある。
 終生、戦争と人間の真実を問い続け、94歳で大往生。1979年、日本芸術院会員になり、99年に文化勲章を受章した。(2023年5月10日付 799号)