富士山における神仏習合

2022年8月10日付 790号

 富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されたのは2013年、正式名称は「富士山─信仰の対象と芸術の源泉」で、芸術の対象としての美しい山容とともに、日本人の古代からの信仰の遺産としての価値が評価されたことになる。そこで、あまり知られていない信仰の山としての富士山の歴史を振り返ってみよう。
 古代の日本人にとっては山も川も、自然界のすべてが神であった。ヒマラヤが神と崇められたように、卓越した山に神格を認めるという古代人の感性は、世界的に共通したものだった。富士山はとりわけその山容の美しさで群を抜いており、美と宗教は古代人の聖性において一致していたのである。

修験道から富士講へ
 富士山は9世紀の大噴火からたびたび噴火しており、その怒りを鎮めるために浅間神社などで祭りを行う畏敬の対象であり、もともとは下からあがめる山だった。山伏は山で修行して超能力を身に付け、里に下りて加持祈祷など行ったことから、人々に尊敬されたが、一般人は富士山に登ってはいけなかった。
 修験道は、日本古来の原始宗教(アニミズム)と仏教の密教信仰が結び付いて生まれたもので、開祖とされる役行者は文武天皇の699年に伊豆に流されたとき、夜は富士山に飛んできて修行したとの伝説がある。
 富士山は802年の延暦の大噴火から11世紀終わりころまで噴火を繰り返したので、修験道が飛躍的に発展した9世紀では、他の修験道の山に比べて開拓が遅れていた。噴火が鎮まった平安時代の12世紀に富士登山を繰り返したのが、富士山修験道の開祖とされる駿河の国の末代上人である。末代は何百回も富士山に登り、山頂に大日寺を建てたというから、大日如来を中心仏とする密教の僧であろう。
 末代の師は、鳥羽上皇が久安年間(1145〜51)に今の富士市に創建した天台宗実相寺の開山・智印法師である。末代は鳥羽上皇の支援を受け、富士山を中心に経筒の埋納を各地で進めていた。鳥羽上皇は、京都で貴族以下多くの人たちに写経させ、それを末代に経塚に埋納させた。それによって、富士山に登れない人たちも富士山に結縁されるとしたのである。
 末代は村山に興法寺を建て、村山が富士山修験道の拠点となったことから、富士山修験道は村山修験と呼ばれるようになる。村山修験は、後に天台宗系の修験道を束ねる聖護院に属したので、富士山の修験は聖護院が取り仕切るようになった。
 村山修験は駿府の太守今川氏に庇護され、富士山頂の管理権を独占するなど隆盛を極めたが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川氏が滅亡に向かうと衰亡していく。
 鎌倉時代の末から室町時代にかけて、浄土思想の広まりを背景に、修験道も庶民に開かれていった。インド仏教の須弥山信仰が富士山に投影され、富士山頂が極楽浄土だというイメージもできてきた。
 室町・戦国時代になると、山伏や御使(おし)のガイドで富士登山するようになり、次第に大衆登山化していった。それが江戸時代の富士講につながる。庶民の組織として生まれた富士講には、近世的なリクリエーションに加えて隠然として反体制的な要素もあった。そうした下層からの盛り上がりが幕末・維新の激動へと時代を進めたのである。
 徳川家康は富士宮浅間神社を厚遇し、村山修験は冷遇した。キリシタン禁令の宗教政策として始まった寺請け制度は、やがて檀家制度として仏教を行政に取り込む形で体制化し、それによって寺が宗教性を失っていく中、庶民の間から新興宗教のように生まれてきたのが富士講と言えよう。

自然とひとつになる
 宗教から観光・冒険登山となった今も、それをいざなう力は自然とひとつになりたいという人間本性に発するものであろう。それは霊験を求めた修験道や即身成仏の真言密教でも同じである。多くの恵みと共に想像を絶する危険をはらむ日本の自然は、日本人にとってまさに信仰の対象であった。日本の自然が日本人の信仰を培ったと言ってもいい。
 価値が多様化、個人化し、宗教と教団の存在自体が問い直されている今、自然とのかかわりから生まれた信仰の原点に立ち返る必要があるのではないか。