多度大社の神が仏教に帰依

連載・神仏習合の日本宗教史(3)
宗教研究家 杉山正樹

多度大社

神祇信仰の変化
 山を神とする山体信仰の原初形態は、神体山(神奈備)の頂上の磐座や磐境(湧水や滝など)に降臨する神霊を祭祀する「山宮」であった。やがて山麓の人里近くに祭祀場を設け、神を降ろし神籬を定める「里宮」に移行し、最後は、田圃などに祭場を遷し、農耕生活に密着した常住神を祀る「田宮」の出現となる。
 海神信仰においても概ね同様で、「沖津」「辺津」「中津」が山体信仰のそれぞれに対応する聖地として定められていた。当然のことながら社殿は存在せず、人々は自然神に祖霊を重ね合わせ、素朴で正直(せいちょく)な心で、存在するが姿を顕さない神を祀っていた(逵日出典『八幡神と神仏習合』)。
 民俗学者の柳田國男は『山宮考』で、「山宮」と「里宮」の間を祖霊が行き来するとして「山の神」「田の神」という概念を打ち出し、氏神信仰こそが日本人のカミ信仰の核心だと結論づけた。
 一方、時代が下るほどに、祀られるカミは「敬神」から「祈願神」へ、「祖先神」から「勧請神」へと変容していく。蝗害や旱魃・疫病の調伏に「霊験あらたかな」カミの噂を聞きつけ、氏神を超えたカミの勧請が進む。これらを背景に、「神仏習合」の初期段階でも、より強力な霊験を求めて仏教の神々(厳密にはヒンズー教の神々)の勧請が進んだ。
 仏教公伝は538年(552年説もある)とされるが、私伝はかなり早い段階で起きていた。これを担ったのが、優婆夷・優婆塞などと呼ばれた在家の山林修行者で、山に籠り、雑密修験で呪力を蓄え、里に下りて加持祈祷をしていた。彼らが諸国を巡歴することで仏教は地方に広まり、神祇信仰に仏教の神々を勧請する神像を製作した。そうした山林修行者の代表が満願禅師(720〜860)で、鹿島神宮・箱根三所権現・多度大社の神宮寺の建立に大きな役割を果たしたとされる。
 仏教が伝播した国々で、それぞれの土着の宗教と習合していったのは、古代ローマやヨーロッパでキリスト教が広まった際に他宗教が抹殺されたのとは対照的で、釈迦の後継者がそれぞれの仏教を展開した仏教ならではの現象だろう。インドから西域を経て中国に伝わった大乗仏教は、既存の道教や儒教と習合し、それが日本に伝わったのである。
 日本における「神仏習合」の千年は、日本人の感性と知恵が編み出した宗教の多様性という他はない。神祇信仰にはない仏教の即物的な影像と緻密な理論体系が、新鮮な驚きで受け入れられたのも、仏教が浸透した理由の一つであった。

上げ馬神事

神身離脱
 多度大社は、三重県桑名市多度町多度にある式内社で、旧社格は国幣大社で現在は、神社本庁の別表神社となっている。創建は雄略天皇の御代と伝わり、背後の多度山を神体山とし、山中には多くの磐座がある。祭神は天津彦根命で、相殿に面足命と惶根命、別宮に天目一箇命(天津彦根命の御子神・鍛冶の神)を祀る。三重県では伊勢神宮・二見興玉神社・椿大神社に次いで参拝者数が4番目に多く、古より「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠われている。
 『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』によれば天平宝字7年(763)、多度大社東方に井於道場を構えていた満願禅師が阿弥陀仏を安置したところ多度神が現れ、「自らの重い罪業のために神の身になってしまった。それゆえ神身を離れ三宝に帰依したい」と神託を下したという。いわゆる「神身離脱」である。禅師は多度山南辺に小堂を建立し、神像を作って多度大菩薩と号し、祀ったのが神宮寺の創始とされる。その後、桑名郡司水取月足、美濃国県主新麻呂、大僧都賢環などの寄進により三重塔2基を有する伽藍が完成した。
 一時は寺院70坊・僧侶300人規模の大寺院を誇ったが、元亀年間(1570〜73)の織田信長と長島一向宗徒との争いで一向宗側に立った多度大社は兵火で社殿を焼失、神宮寺も消滅した(『多度山衆僧記』)。伽藍はその後、慶長10年(1605)に桑名藩主・本多忠勝により再建されている。
 多度大社では毎年5月5日と4日の多度祭りで、勇壮な「上げ馬神事」(三重県の無形民俗文化財)と流鏑馬が行われる。騎手として選出された10代の若者6人が、のべ18回、絶壁に近い2・5メートルの急坂を乗馬して駆け上がるのである。馬が上がった数や順番により、一年の農作の時期や豊凶を占う。
 「上げ馬神事」は南北朝時代の暦応年間より始まったとされるが、2020年から3年間は、新型コロナ感染症の影響で中止されている。これは、織田信長の焼き討ち以来400年ぶりとのこと。
 別宮祭神の天目一箇命は桑名首の始祖とされるが、多度大社は伊勢平氏をはじめとする武家の氏神としても崇められた。多度神宮寺を起源とする神仏習合の影響を受け、氏子の多くは熱心な浄土真宗の門徒にもなっている。多度山の恵みを受けた人々の信仰は篤く、神仏と生きる喜びを分かち合いながら、農耕武士の名残のある伝統が、今も受け継がれている。(2022年6月10日付 788号)