ウイズコロナの新生活と倫理
2020年10月10日付 768号
コロナ時代の生き方について多くの議論が展開されている。新型コロナウイルスの感染者、媒介者になる危険を避けることが新生活の倫理の核心で、その状態は、当初の楽観的な予想に反し、かなり長期に及びそうである。ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、今はネオキャピタリズムの終焉の始まりだとし、ウイルスは人々を物質主義から解放し、グローバルなモラルの進化を促すという。
津和野藩の神祇政策
来年の大河ドラマの主人公は、日本資本主義の祖であり、「論語と算盤」で知られる渋沢栄一。明治日本の最大の課題も、国民的倫理をどう形成するかであった。
歴史家の阪本健一は『明治神道史』で「津和野藩の神祇政策それは維新神祇行政の縮図であり、否前奏であったのである。学統の上では全国的に弘まっていた本居・平田の勢力を利用或は牽制し、政治的には隣藩聴衆の力を利用し、それを京都公卿堂上の一派に結びつけたところに津和野藩主従の面目があり、明治神祇行政の真姿があった」と述べている。
「王政復古の大号令」によりスタートした明治新政府の最大の課題は、欧米列強をモデルに近代国民国家をいかに日本に根付かせるかであった。欧米と日本の最大の違いは、欧米にはキリスト教がいわゆる市民宗教として広まっているのに対し、日本では神道も仏教もそうした状況にはなかったことである。唯一あったのが、天皇に対する漠然とした崇拝心で、そのため幕末の抗争ではいずれが玉(天皇)を手中に取るかが勝敗を分けた。
ところで、王政復古がいつの時代への復古かが問題になった。当時、最大の国学勢力である平田篤胤派は律令制を主張したが、それは後醍醐天皇新政の失敗を連想させた。それに対して4万3千石と小藩ながら、津和野派が主張したのは神武創業で、史実としては何もないので、近代国家の構造に精神として取り込むことが可能であった。しかも、そのための試行錯誤を、津和野藩は小規模ながら実践していた。それが、学だけの平田派との最大の違いである。
加えて、隣の長州とは、皮肉なことに幕府の長州征討の最前線にあったことから、交渉を通じて人脈が築かれていた。それが、長州閥が力を持つ新政府で力を発揮したのである。
これは日本の仏教受容にも言えることで、インドで生まれ中国、朝鮮を経て伝来した仏教は、既にその3国で国家建設の理念となる経験を積んでいた。仏教の政治的価値に気づいたのは国づくりを進めていた聖徳太子で、太子が著したとされる『三経義疏』のうち2つが、在家による『勝鬘経』と『維摩経』だったのは重要である。
当時から日本人は現実的で、太子の思想は空海の即身成仏に結実する。本来、仏教は死ぬための教えではなく、よく生きるための教えであった。そうした心性を持つがゆえに、近現代になって左右のイデオロギーが吹き荒れても、人々はやがて中庸の現実主義に立ち返ったのである。
津和野派は、平田派の神祇官祭祀を宮中祭祀に転換させ、天皇親祭・天皇親政と世俗の近代国家を両立させ、政教分離の原則を貫き、今に続く近代的な天皇制度を確立したのである。古代と近代の見事な合体であった。
キリシタン殉教の地
その津和野藩の大きな悔いとなったのが、キリシタンの改宗に取り組み、多くの殉教者を出したことである。明治元年、「浦上四番崩れ」と呼ばれる長崎浦上村のキリシタンの流罪処分で、名古屋以西の10万石以上の諸藩が預かることになったのだが、津和野藩は小藩にもかかわらず、信仰の堅い信徒を、いわば「やれるものならやってみろ」と押し付けられたのだろう。
神道的な説諭が彼らに通じるはずもなく、衣食の圧迫や拷問により、41人の死者を出してしまう。長崎に次ぐキリシタン殉教鮮血地の名を留めることになったのである。
神仏習合が一般的で、一向一揆などの宗教騒乱は稀だった日本に、信教の自由の概念が希薄だったのは政府も国民も同じで、厳しい批判を受けた岩倉遣欧使節団がそのことに気づき、キリスト教禁止の高札が撤廃されたのは明治6年になってである。そんな歴史を教訓に、新しい時代の倫理を構想したい。