李登輝元総統と後藤新平

2020年9月10日付 767号

 7月30日、97歳で亡くなった台湾の李登輝元総統が91歳で上梓した『李登輝より日本へ贈る言葉』(ウェッジ)で元総統は「日本に学んだ武士道の精神があったから、台湾は中国文化に呑み込まれず、1996年に実現した総統直接選挙まで民主化を進められた」と述べ、日本に「日本精神に目覚めよ」と呼びかけている。
 22歳まで日本教育を受け、総統として台湾の民主化を成功させた哲人政治家の言葉、とりわけ、総統時代に中国と厳しく対峙した経験は日本にとって示唆に富んでいる。

「私の先生」
 1994年、中国浙江省の千島湖(せんとうこ)で遊覧船が何者かに襲われ、放火により台湾人観光客24人が殺害された事件が起きた。当初、当局は火災事故だと発表したが、解放軍兵士が起こしたとの確証を得た李総統はただちに中国への渡航を禁止し、猛烈に抗議した。すると、中国政府はあわてて解放軍の元兵士3人を身代わりに逮捕し、死刑にした。「中国は、相手が弱いと見るといじめ、強く出れば遠慮するので、日本は中国に対してはっきりものを言うべきだ」と李氏は言う。
 台湾は半世紀に及ぶ日本統治下で、伝統的な農業社会から近代社会へと変貌した。それを指導したのが児玉源太郎や後藤新平、新渡戸稲造らで、国民教育から始め近代的な国民意識を形成した。そこに戦後、中国共産党に敗れた国民党が、新しい支配者としてやって来たのである。これを台湾では「犬が去って、豚が来た」と言う。役人や軍人の腐敗が横行し、抵抗する台湾人を弾圧したからだ。そんな中で起きた1947年の二・二八事件を、李氏は日本と中国との「文明の衝突」だとする。
 台湾人は「日本精神」という言葉を好んで使う。日本統治時代に学び、純粋培養された、勇気、誠実、勤勉、奉公、責任感などの道徳で、李氏は新渡戸稲造にならい「武士道」だとする。
 李氏が「私の先生」と尊敬する後藤新平は須賀川医学校に学んだ医者で、内務省衛生局に入り、官僚として病院・衛生に関する行政に従事した。明治28年、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として、広島・宇品港似島で検疫業務に従事した。その行政手腕の巧みさが上司の児玉源太郎の目にとまり、台湾総督になった児玉に台湾総督府民政長官として抜擢されたのである。
 当時、マラリアなどの感染症が蔓延していた台湾で、後藤は徹底した調査を行った上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。現地を知悉し、状況に合わせた施政をしなければ大きな反発を招くからで、後藤は自ら「生物学の原則」に則った手法と語っている。その手法でアヘン対策も進め、コントロール化に成功した。アメリカから新渡戸稲造を招いたのは殖産のためで、新渡戸はサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残し、台湾農業の近代化に貢献した。
 近代国民国家の条件は国民の命を守る政府があることで、感染症と食糧の二大分野で後藤はそれを築き、台湾近代化のインフラとしたのである。植民地経営というと上からの発想のようだが、民の側からの発想で行ったのが後藤の政治を成功させた。李登輝総統も同じ発想で台湾民主化を成し遂げたから、後藤を「私の先生」と呼ぶのである。

民からの発想
 京都大学で農業経済を学んだ李氏の恩師が柏祐賢(すけかた)で、李氏は来日の折、再会を果たしている。新渡戸と同じ農業経済学の権威だった柏は、書斎に親鸞関連の本が並ぶ浄土真宗の信仰者だった。
 当時、京大には親鸞寮があるほど真宗の学生が多く、国産初の電子顕微鏡の製造者で、日本ウイルス学会会長、京都大学ウイルス研究所所長、日本電子顕微鏡学会会長、国際電子顕微鏡学会連合総裁なども務めた鹿児島生まれの東昇(ひがしのぼる)も、親鸞寮での学びで、隠れ念仏の母を思い、念仏に目覚めている。
 李氏は柏から学問ととともに生き方も学んだのであろう。それは親鸞の説く民からの、生きとし生けるものからの発想で、それこそ東洋に生まれ育った民主主義の伝統である。自由な国が権威主義の国に圧倒されないよう、国民一人ひとりが支えたい。

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