ヴィドール先生との出会い

シュヴァイツアーの気づきと実践(6)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 1900年前後のころ、教会音楽の主流はパイプオルガンだった。いろいろな楽器の音色を自由に選んで組み合わせ、オルガニスト一人で管弦楽を奏でる、壮大な楽器である。大きな教会や音楽堂には必ず備えられ、宗教性を帯びた響きが聴衆の心を惹きつけた。
 当時ヨーロッパで第一級のオルガニストと評されていたのは、パリに住むシャルル・マリ・ヴィドールであった。ヴィドールはオルガニストとして著名であっただけでなく、バッハ音楽の研究家として名をはせていた。気難しい人で、パリ音楽院オルガン科の生徒にしか個人的指導をしなかった。
 そんな大先生のところに、1893年6月のある日、ドイツから18才の田舎青年が教えを請うために訪ねてきた。通常であるなら門前払いするところである。ところがその若者は一通の紹介状を携えていた。それはヴィドールの友人からの紹介状であった。その友人は若者、アルベルトの叔父でもあった。それにしても、音楽学校に通って正規の音楽教育を受けていない青年を送り込むとは……。田舎では優れた弾き手であるかもしれないが、パリで通用するはずがない。ヴィドールは戸惑った。
 「ところでアルベルト君。君は、何を弾いてくれるのかね」
 「もちろん、バッハです」
 バッハ研究の第一人者であるヴィドールに向かって、臆面もなくバッハを弾くと言い放ったのである。なんと豪胆な若者なのだろう。この田舎青年が私の前でバッハを弾くとは……。紹介状があるのでやむなく招き入れただけなのだ。一曲聴けば、その才能はよくわかる。その上で体よく断ろう、とヴィドールは思った。
 アルベルトは招かれるままにオルガンの前にすわり、バッハを弾き始めた。ヴィドールはアルベルトの斜め後ろに立ったまま、その運指法に目をとめ、音色に聴き入った。10分足らずの演奏が終わると、ヴィドールはにこやかに彼の肩に手をのせた。さっきまでの他人行儀の厳しい表情ではなかった。アルベルトの演奏はパリ音楽院のどの生徒のものより優れていたのである。
 ここに師弟関係が生まれた。才能を認められたアルベルトは、月に1回、ヴィドール先生の教えを受けるようになったのだ。その年の10月にドイツのシュトラースブルグ大学の神学科に入学したアルベルトは、生活費を倹約してパリまでの交通費を捻出しなければならなかった。
 ヴィドール先生の指導は厳しかったが、アルベルトにとってそれは少しも苦にならなかった。磨かれていく自分の音楽性に大きな喜びを感じていたからだ。やがてヴィドール先生は、交通費のために昼食を倹約して腹を空かせているアルベルトに気がついた。先生はそれとなく彼をレストランに連れていき、一緒に食事をするようになった。
 演奏会を開いたりしながらほぼ10年後、ふたりは数人の音楽家とともにパリ・バッハ協会を立ち上げ、アルベルトはその専属オルガニストになった。
(2019年12月10日付758号)