北条泰時/御成敗式目を制定
連載・愛国者の肖像(23)
ジャーナリスト 石井康博

北条泰時は寿永2年(1183)に第2代執権北条義時の長男として生まれた。母は阿波局。泰時が10歳の時、御家人多賀重行が泰時とすれ違った際に下馬の礼を取らなかったとして、源頼朝に咎められたが、泰時は「重行は非礼を働いていない」と、罰せられないよう庇ったといわれる。その頃から慈悲にあふれた優しい性格だった。義理の甥にあたる泰時は頼朝から将来性を見込まれ、目をかけられた。また泰時も頼朝を理想の将軍として深く尊敬していた。
建久5年(1194)に13歳で元服。建仁元年(1201)泰時は大風が吹いて鎌倉中が被害を受ける中、蹴鞠に夢中になっている2代将軍頼家を諌めようとして、伊豆に謹慎処分になった。その時、不作のため借金で苦しんでいた百姓たちの借用証書を焼いて、酒や米を施したと記録されている。建暦3年(1213)に和田義盛の反乱が起こると、父義時と共に戦った。戦功を立てた泰時は、陸奥遠田郡の地頭職に任じられたが、「私が父の敵と戦うのは当然のこと」と言って恩賞を拒んだという。建保6年(1218)には侍所の別当に任じられ、御家人を統制する役目を務めるようになった。
承久3年(1221)には執権義時と泰時親子に未曾有の危機が訪れた。3代将軍源実朝の死後、将軍の後継者の問題に端を発して、後鳥羽上皇と義時の間が険悪になり、ついに後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発布し、挙兵する。
その2か月前に北条政子は不思議な夢を見た。その夢では大きな鏡が「我は大神宮である。近く天下大いに乱れて、兵乱が起こるが、泰時我を輝かさば、太平を得よう」と言ったという。政子は奉幣使を大神宮に遣わした。義時から命じられ、鎌倉幕府軍の総大将となった泰時は大江広元の主張により、即座に京へ18騎と共に出発した。
進むにつれ軍勢はみるみる拡大し、最終的には19万にまで膨れ上がった。幕府軍は連戦連勝し、宇治川での戦いでは犠牲者を出しながらも渡河に成功し、朝廷軍を敗走させ、一気に京に攻めこみ、勝負は決した。その後後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、土御門上皇は自ら望んで土佐に配流された。そして新しく後堀河天皇を即位させた。
その時、泰時は高僧・明恵と運命的な出会いをした。承久の乱の後、京では後鳥羽上皇側についた武士の残党狩りをしていた。栂尾山に京方の武士がかくまわれていると聞いた安達義景は、明恵を捕らえ泰時に差し出した。その時、明恵は「かくまったのは仏の慈悲の心のゆえである。もしそれがいけないのなら私の首をはねなさい」と言ったという。泰時は非礼を詫び、明恵に出会った喜びを伝え、逆に教えを乞うようになった。以後、泰時は六波羅探題(北方)として京に残るが、栂尾に参詣し明恵を師と仰いで、語り合った。ある時、泰時が明恵に天下を治める方法を尋ねると、「国が乱れる原因は欲心にあるから、その欲心を捨てないといけない」と、答えたという。明恵の教えはその後の泰時の治世に大きく反映した。
貞応3年、執権北条義時が死去。泰時は鎌倉へ帰る。継母の伊賀の方が自身の息子正村を執権に擁立しようとするが、北条政子と大江広元は泰時とその伯父時房の両名を執権(筆頭は泰時)として任命し、伊賀の方を謀反人として追放した。泰時は父義時の遺領を配分する際、自分はわずかしか受け取らず、多くを自分の弟と妹に分け与えた。また、政村に対してはその後、不問にして許した。泰時の彼らに対する愛情ゆえの措置だった。
嘉禄元年(1225)に大江広元と政子が世を去ると、泰時は源頼朝や北条政子による専制政治から集団指導制の政治へと移行した。複数の執権のうち次席の執権は「連署」とよばれるようになり、またそれに加えて11人の「評定衆」を加えた評定会議が幕府の最高機関として行政、司法、立法のすべてを行った。そして征夷大将軍は名目上の存在となり、会議で決まったことの報告を受けるだけになった。
武家による統治が進んでいくと、泰時にとって理想の時代とされる源頼朝の時代における裁きの先例では解決できない問題が多く発生し、また律令など貴族の法律に武家の道理を加えた法典の制定が急務となった。泰時と評定衆は法典の編纂を進め、貞永元年(1232)に全51条からなる「御成敗式目」を完成させた。それは中国での法をまねて作った律令とは違い、日本の風習、そして泰時の理想とする倫理観を前提とした独自の法典となった。1、2条には神社や仏閣を崇敬するべきことが記されていて、泰時の神仏に対する篤い信仰がよく現れている。この御成敗式目は鎌倉時代の後も、戦国時代まで影響を与え続けた。
泰時はその時代の人々から人格者として武家、公家から尊敬され、常に「道理」をもとにした政治を行い、民に対しては、「撫民」(ぶみん、民衆への愛情)の政策をとっていた。その泰時に再び大きな危機が訪れる。それは寛喜3年(1231)の飢饉だった。前年の夏の冷夏と台風は農作物の収穫に大きな打撃をもたらし、春になると食糧が底をついてしまった。日本全国が大飢饉となり、餓死者が続出した。泰時は民と苦しみを共にし、節約に心がけ、夜は燈火を使わず、昼食は抜き、酒宴を取りやめた。自身の所領では富裕層に米を供出させ百姓を救い、年貢を免除し、旅人に食糧を与えた。こうして飢饉を乗り越えようやく8月の末になって食料にありつけるようになった。
任治3年(1242)四条天皇が崩御。後継者を選ぶ際、承久の乱の首謀者の一人である順徳天皇の息子の擁立に難色を示し、この時はさすがの泰時も強引な措置を取り、承久の乱に関与しなかった土御門上皇の子、邦仁王を新たな天皇、御嵯峨天皇として即位させた。同年5月に出家、そして6月15日に心労、過労がたまり、また赤痢を併発しこの世を去った。享年60。
北条泰時は武家による統治を確立し、御成敗式目を完成。以後の武家社会の基礎を確立し、また日本人の魂と言える質実剛健の武士道の精神を後世に残した。多くの人に称えられる善政を敷き、日本人の精神を築いたその功績は大きい。
(宗教新聞2024年10月10日付 816号)


