五色塚古墳と古代の海/中世には武士と僧が活躍

連載 神戸歴史散歩(8)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

東アジアから神戸へ

五色塚古墳と明石海峡大橋


 神戸市立博物館は2010年、特別展「東アジアから神戸へ 海の回廊─古代・中世の交流と美─」を開催した。古来、東アジアにつながる瀬戸内海の港として栄えた神戸を中心に、古代から中世にかけての海をめぐる東アジアとの交流と、それによってもたらされ、生み出された文化の実体を展示しようとするものであった。
 同展は3部門からなり、「海を支配した豪族」では、瀬戸内海で活躍した豪族の実像を、古墳から出土した船形埴輪や大陸から伝来した金属製品などで探っている。次に「海をめぐる武士と僧」では、日宋貿易を盛んにするため和田泊を整備した平清盛をはじめ、港湾の修築や港湾の管理に活躍した東大寺の重源や西大寺の叡尊、海上交通を介して広まった時宗や法華宗などの姿が展示されていた。最後の「海を越えて響きあう美の世界」では、インド・中国・朝鮮の美がどのように受容し、変容されたかをたどるもの。天然の良港を拠点に発展してきた神戸らしい展覧会であった。以下、同展の図録を参考にしながら、当時の神戸をたどってみよう。

五色塚古墳
 神戸市垂水区五色山にある五色塚古墳(千壺古墳)は4世紀後半に築造された県下最大の前方後円墳で、墳丘の大きさは、全長194メートル、前方部の幅82・4メートル、高さ13メートル、後円部の直径125・5メートル、高さ18・8メートルで、周囲に周濠が巡らされていた。西隣に同時代の小壺古墳がある。明石海峡とそこを行きかう船を見下ろすような場所にあり、海上交通の要衝にあることから、海上交通とのかかわりが深い有力者の墓と考えられている。
 国指定の史跡で、神戸市が昭和40年から10年の歳月をかけて整備・再現した。3段に築かれた墳丘のうち、下段は地山を前方後円形に掘り残し、中段と上段は盛土している。下段の斜面には小さな石を葺き、中段と上段の斜面には大きな石を葺いている。中段と上段の葺石は『日本書紀』の記述通り淡路島から運ばれたもので、使用された石の総数は、223万個・総重量2784トンと推定される。墳頂と2段のテラスには、鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪など総数2200本が巡らされていた。
 五色塚古墳は舞子公園の北東、旧有栖川宮邸庭園が庭に残されているシーサイドホテル舞子ビラ神戸の近くにある。墳丘墓に登ると明石海峡大橋が望め、古代と現代を同時に体験できる。
 国内初とも言える巨大古墳の復元整備を構想したのは、当時、文化財保護委員会(現・文化庁)にいた考古学者・坪井清足(きよたり)である。同じ頃、建設省(現・国土交通省)で議論が始まっていた明石海峡大橋と、古墳の荒廃を嘆く地域住民の声から、古代技術の粋を集めた五色塚古墳と、現代技術の粋を集めた明石海峡大橋とを見比べられるようにしたという。
 史跡公園として開園したのは昭和50年8月8日で、各地の史跡整備に大きな影響を与えた。明石海峡大橋が開通したのは23年後の平成10年で、年間3万人以上が訪れる観光スポットになっている。明石海峡大橋の手前に、近現代の日中交流を象徴する孫文記念館があるのも、歴史を一望する上で意義深い。
 『日本書紀』によると、新羅征討から戻った神功皇后が、征討前に崩御した仲哀天皇の遺骸と誉田別尊(ほむたわけのみこと 後の第15代応神天皇)を伴って大和に帰る際、いずれも仲哀天皇の皇子の麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、次の皇位が誉田別尊に決まることを恐れて皇后軍を迎撃しようとした。そして、両皇子は仲哀天皇の陵の造営のためと偽り、淡路島まで船を渡して石を運び、赤石(明石)に陣地を構築したという。この伝承について、明石の海沿いで「陵」と呼べる規模の古墳は五色塚古墳しかなく、古くより五色塚古墳がこの「赤石の山陵」に比定されている。
 つまり、五色塚古墳は仲哀天皇の偽りの墓だというのだが、史料からして史実ではなく、古墳時代の当地の王の墓で間違いないとされている。もっとも、天皇の墓ではないので宮内庁の管轄ではなく、発掘調査できたのは幸いだった。
 神戸市内の国史跡は6件で、東灘区の「処女塚(おとめづか)古墳」、灘区の「西求女塚(にしもとめづか)古墳」、中央区の「楠木正成墓碑」、兵庫区の「和田岬砲台」、垂水区の「明石藩舞子台場跡」、そして「五色塚(千壺)古墳・小壺古墳」である。
 発掘で明らかになったのは、墳丘の各段と墳頂に円筒埴輪が列をなしてびっしり立て並べられていたことで、その数は推定2200本にもなる。五色塚古墳の円筒埴輪の特徴は、左右に一対の「鰭(ひれ)」が付いている「鰭付円筒埴輪」であること。墳丘に向かって鰭を平行にして隣の埴輪との鰭が接するか、前後に重なり合うように並べられており、内部の空間を遮蔽する強い意識が読み取れるという。しめ縄による結界と似ている。
 埴輪列には、鰭付円筒埴輪5~6本に1本の割合で、鰭付朝顔形埴輪が規則的に配置されていて、存在感を際立たせている。レプリカにより再現されているので、建設当時の風景を目の当たりにすることができる。海上から見る景色は壮大で、この地の王の力を感じたことであろう。当然ながら、そうした効果を狙う古墳であった。
 古墳の副葬品の内容は、4世紀後半から5世紀にかけて、呪術に使う青銅鏡や装身具の玉などが姿を消し、最新式の武具や武器、鉄製の農工具や短冊形の板に規格化された鉄素材である鉄鋋(てつてい)、中国や朝鮮半島からもたらされた金・銀・ガラスの装身具や装飾性の高い馬具などが増えてくる。こうした変化は、支配者が呪術性、神格性の高い人物から、武人としての要素が強い人物へと変貌していったことを示している。
 これら副葬品から明らかなのは、鉄素材の安定的な確保が支配者の要件になったことで、武具や武器、鉄製農工具の生産による武力の向上と耕作技術の改善、土地開発の促進が進められたのである。大陸・半島との交流も、それら素材と技術、さらには文化の獲得が主目的で、次第に自立性を高めた支配者たちは、選択的にそれらを受容したものと思われる。

海をめぐる武士と僧
 神戸市博物館の「海の回廊」展2の「海をめぐる武士と僧」について、平清盛の大輪田泊の整備については既に述べたので、現在では意外に思われる僧の活躍について述べてみよう。

大輪田泊のジオラマ


 公共事業を行った僧としては、東大寺造立にかかわった行基が有名である。インドとは異なり、日本では最初から朝廷の保護の下に受容された仏教は護国仏教として発展し、多くの僧が官僧つまり国家公務員であった。それに対して行基は自分で出家した私度僧(しどそう)で、民間人として活動した。大乗仏教の特徴である利他行(作善)である。渡来系の技術者集団を率いてため池など灌漑設備を造るほか、街道や宿場を整備しながら、人々が集まる巷などで布教したのである。
 行基が開いたとされる寺や池、から風呂などが各地にあるのは、空海と同じで面白い。多くの民衆が行基に従うことで徳を積むことができると思い、それら公共事業に参加したのであろう。その行基が生まれたのは今の堺市である。
 行基は天智天皇7年(668)、父・高志才智(こしのさいち)、母・蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)の長男として、家原寺(えばらじ)で生まれた。家原寺の境内には「行基生誕の地」の石碑が立っている。高志氏はもと越氏と称し、越後国から和泉国に移住した一族で、越氏は百済国から来朝した漢系渡来人王仁の子孫である西文氏の一族とされる。百済系渡来人の子孫とする文献もあり、いずれにせよ行基は渡来系氏族である。
 15歳で出家し、入唐して玄奘の教えをうけた僧・道昭(どうしょう)を師とし、法相宗に帰依。24歳で受戒し、初めは法興寺に住し、後に薬師寺に移ったが、やがて山林で修行し、呪力や神通力を身に付けた。37歳で山を下り、布教を始めたという。
 710年の平城遷都の頃には、過酷な労働から逃亡民が発生し、彼らの多くが行基のもとに集まり私度僧になった。僧になると税を免れるからである。717年に行基は、「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と糾弾され、布教活動を弾圧されたが、集団は拡大を続けた。722年には平城京に菅原寺を建て、以後は役人や商工業者にも信者を広げている。
 723年に出された三世一身法(さんぜいっしんのほう)で、自発的な開墾が奨励されると、行基の活動は急速に発展し、声望が高まったので、朝廷もその影響力を無視できなくなる。朝廷は731年に、高齢の優婆塞(うばそく)や優婆夷の得度を許し、740年頃までには行基を薬師寺の高位の僧に認めた。以後、新京造営や大仏建立などの事業に行基とその弟子が参加するようになる。
 行基を尊敬した聖武天皇は745年に、異例の日本初の大僧正に任じた。747年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じ新薬師寺を建立している。行基は749年に聖武天皇に戒を授け、82歳で遷化し、遺言により火葬に付された。朝廷より菩薩の称号が下され、以後「行基菩薩」と呼ばれるようになる。 完成した大仏の開眼供養の導師を勤めたのは、行基が中国から迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)である。
 堺市は第15代応神天皇から第25代武烈天皇までの、いわゆる河内王朝があったところ。応神から武烈まで11人の天皇のうち8人の陵墓が堺市をはじめ羽曳野市、藤井寺市、にある。巨大な王陵を築いた河内王朝はその前の三輪王朝を凌いでいたであろう。世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は、築造に日に2000人を動員して40年かかると推定されるほどだ。
 王朝が大和から河内に進出したのは、当時、激動期にあった朝鮮半島の情勢を踏まえ、また当地に住んでいた高い土木技術を持つ渡来士族の取り込みを視野に入れてのことであろう。彼らの協力を得て王権は強大になっていく。
 応神天皇、神功皇后などを祭神とする百舌鳥(もず)八幡宮も、河内王朝の名残を伝えている。樹齢800年の天然記念物の楠が社殿を覆っていた。境内の池に水天宮が祀られ、祭神に住吉大神がいることから、海とのかかわりも強いことが分かる。
 古代の大輪田泊は785年に淀川と大阪府北部から兵庫県東南部を通る神崎川が水路で結ばれることで、瀬戸内海から京への重要な航路になった。行基に関する記録では、大輪田泊を含む兵庫県下の摂播五泊(せっぱんごはく)が登場し、大輪田泊にも清盛の前に行基がかかわっていたと思われる。

清盛塚十三重石塔

重源が港湾を整備
 平氏滅亡後、大輪田泊や魚住泊(明石市)、一洲(いちのす 尼崎市)の改修を行ったのが、東大寺の再建に手腕を発揮した重源である。当時の仏教は宗教にとどまらず医療や建築、音楽も含む文化の総合学であり、とりわけ現世における衆生の救いを旨とする大乗仏教の僧が、今でいう公共事業に乗り出したのは自然であろう。
 重源が瀬戸内海の港を整備したのは、今の山口や広島、岡山県から東大寺再建に使う用材などの物資を円滑に海上輸送するためでもあった。当時、東大寺は大坂の港を管理し、交易の税を徴収していたので、主目的はそちらにあったといえよう。結果的には、清盛に続く重源によって神戸港の基礎が築かれたのである。
 瀬戸内海の水運が盛んになると商人らも活躍するようになり、弘安9年(1286)には亀山上皇の肝いりで、善通寺の大改修のため、清盛が築いた兵庫島(経が島)から始めその費用を徴収するようになる。鎌倉時代末期には、期間を限定しない関が兵庫島に設けられて関料が徴収され、港湾の整備に充てられるとともに、東大寺や興福寺の権益になったため、利害の対立が起こるようになる。
 奈良時代の日本仏教を世界水準に高めたのは、失明しながらも5回目の渡海で来日し、戒律を伝えた鑑真和上である。戒律の「戒」は倫理・道徳、「律」は罰則を伴う法律で、これにより日本仏教にも基準が定められた。
 その戒律を復興(リバイバル)させたのが真言律宗の西大寺の叡尊などで、日本仏教は社会変動の中で釈迦への「原点回帰」により革新を繰り返してきたのである。
 戒律を厳しく護持した叡尊は、民衆の救済にも手を伸ばし、支配層から民衆まで幅広い帰依を受けるようになる。そして石工集団などの職能集団と連携し、道路や橋の修築などの社会事業や衰退した寺院の復興に取り組んだ。その一つとして港湾の修築と運営にも携わっている。
 弘安4年(1281)に神戸周辺を訪れた叡尊は、安養寺で遊女ら1700人に斎戒を授け、石塔供養を行っている。その石塔が清盛塚十三重石塔で、叡尊の布教の一環として宇治橋などに造立された十三重石塔の一つである。
 叡尊の弟子の忍性(にんしょう)も、東大寺勧進職に就くと、重源以来の勧進組織を利用して、活発な勧進活動を展開し、特に瀬戸内海の交通の要衝で、社会事業を行っている。忍性に続いたのが琳海や安東蓮聖(あんどうれんしょう)、定証(じょうしょう)らで、西大寺流律宗は畿内から瀬戸内、九州にまで伸長していったのである。

一遍が眠る真光寺

時宗の真光寺


 鎌倉仏教の最後に登場し、念仏を民衆に広めた時宗の宗祖・一遍も神戸に大きな足跡を残している。伊予水軍・河野通広(かわのみちひろ)の次男に生まれた一遍が時宗を開いたのは、蒙古襲来に鎌倉幕府はじめ日本中が怯えていた1275年のこと。男女の別や信心の有無さえ問わず、念仏を唱えれば誰でも救われると説き、阿弥陀如来に救われた喜びを踊りに表現したことで「踊り念仏」とも呼ばれ全国の武士や農民に広まった。
 インドで紀元前500年ころに生まれた仏教では、約千年後の最後の密教が、古来のヒンズー教の神々を習合したように、時宗も宇佐神宮の八幡信仰や神仏習合の熊野信仰などを取り入れながら、新しい教えを唱えた。
 河野氏は源平合戦では源氏に付き、壇ノ浦の戦いで活躍して所領を得たが、承久の乱では朝廷に付いたため、伯父らは信濃国に流され、幕府方にいた一党のみが残り、かつての勢いは失われた。父の命で出家した一遍は、大宰府で法然の孫弟子に学び、各地で修行する。25歳の時に父の死を受け還俗して伊予に帰り、家を継いだ。
 しかし、一族の所領争いが原因で32歳にして再び武士を捨て、信濃の善光寺などで修行。1274年に遊行を開始し、四天王寺や高野山を巡りながら「南無阿弥陀仏」の念仏札を配り始めた。紀伊で僧に念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の現れとされる熊野権現から、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、配るべし」との夢告を受けた。そこで念仏札に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追記し、これが後に時宗開宗とされる。60万人とは全ての人の意味。踊り念仏の開始は1279年、信濃国でのこと。一遍が鉢を打ち鳴らすと、集まった人たちが自然に踊り始めたという。
 陸奥国にある祖父通信の墓参りの後、1282年に約30人の集団で鎌倉に入ろうとしたが幕府に拒否され、片瀬の浜で念仏踊りを披露した。『一遍聖絵』には建物の中で踊る様子が描かれているので、鎌倉武士の間にも支持者がいたのだろう。
 その後も各地で布教しながら、15年半の遊行を50歳で終えたのは、今の和田岬に近い兵庫津の観音堂(今の真光寺)である。
 一遍は教団を組織せず、寺も建てず、教義も体系化しなかったが、弟子の他阿真教(たあしんきょう)が神戸市北区の丹生山で教団を組織し、一遍の13回忌に彫像を安置した御影堂で法要を営み、近くに五輪塔を建て、その地に後に兵庫道場真光寺が建立されたのである。神戸市兵庫区の薬仙寺や尼崎市の善通寺など港町には時宗の古刹が多い。
 戦に敗れ美濃から越前に逃れてきた明智光秀が頼った称念寺(福井県坂井市)も時宗の寺で港が近く、光秀は時宗のネットワークを使って京と往来していたという。時宗の僧は従軍僧として武将の戦いぶりを記録し、亡くなると供養し、傷つくと治療していたので、光秀も彼らから薬草や医療の心得を学んだのであろう。それが後に、将軍足利義昭に仕えるきっかけになった。
 延慶元年(1308)には東大寺に「兵庫経ケ島升米」が寄進され、港湾の修築費の余剰分を東大寺の収入とする特権で、実質上、港湾の管理運営が東大寺に任せられることになった。しかし、恒常的な関の設置は商人や流通業者をはじめほかの寺社との間に軋轢を生むことになり、いわゆる「悪党」の襲撃を受けるようになる。幕府の記録によると、悪党の筆頭には、金融に携わっていた比叡山の僧もいたという。流通経済の発達が社会を変えていたのである。
 日蓮に始まる法華宗は東国中心に広まったが、弟子の日像(にちぞう)が京に入り、朝廷の公認を得て布教するようになると、現世利益を求める商人ら町衆の間に急速に広まった。『法華経』を一乗とする日蓮は「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と他宗を激しく批判したことから宗派対立が起こり、日本初とも言える宗派紛争「法華一揆」となった。天文年間のことなので、日蓮宗からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれている。
 法華宗の勢いは瀬戸内にも及び、尼崎市の本興寺の日隆らの活躍で兵庫、堺、牛窓、草戸、鞆、尾道などに法華寺院が開かれていく。阿波を本拠とし、織田信長に先立つ天文18年(1549)に畿内政権を立てた三好長慶(ながよし)も、港湾都市の法華信徒を掌握することで、短期間ではあったが三好政権を樹立したのである。


(宗教新聞2024年10月10日付 816号)