『幼児狩り』『美少女』『蟹』『不意の声』河野多惠子(1926~2015)

連載・文学でたどる日本の近現代(50)
在米文芸評論家 伊藤武司

谷崎潤一郎の影響
 河野多惠子は大正15年、大阪道頓堀の椎茸問屋に5人兄妹の二女として生まれた。13歳のころから谷崎潤一郎や泉鏡花の小説を読み漁り、ことに谷崎は河野文学の方向性を決定づけたといえる。戦後、作家になろうと、家族の反対を押し切って上京。昭和25年、丹羽文雄主宰の「文学者」同人になり、会社勤めをしながら習作を続けた。

河野多惠子


 河野は遅咲きだが、資質がないという意味ではない。若い時に一気に才能を花咲かせる人もいれば、人生を踏みながらじっくりと人間として、作家として大成するタイプもある。しかし、20代に肺結核を患い人生の歯車が狂う。結核で早逝した女性作家には『たけくらべ』の樋口一葉や『女坂』の円地文子、『婉という女』の大原富枝、『氷点』の三浦綾子らがいる。闘病しながら39歳で結婚し、その数年後に手術をした。抑圧された青春と混沌とした戦後、厄介な病気という試練が重なる前半生であった。
 苦節15年、昭和36年に同人誌「文学者」の推薦で発表した『幼児狩り』が新潮社同人雑誌賞を受けブレーク。以後、多作になり『堀の中』や、『雪』、『美少女』が連続して芥川賞候補になった。翌年、『蟹』で芥川賞を、『最後の時』で女流文学賞を受賞、短編集『幼児狩り』を初刊行し、一流作家の地歩を固めた。
 『幼児狩り』は、永井龍男や三島や伊藤整が筆力に注目した短篇で、作者自身が「最も書きたいことを書いた最初の作品」と言う。一人の男の子に性的興味をもち性をテーマにした主人公の林晶子にとって「三歳から十歳くらいまでの女の子ほどきらいなものはなかった」。もし結婚して女の子がいたら「ずいぶん不徳な母親になっていたにちがいない」と考える。「女の子への嫌悪の情」は「色の白さ、ぶよぶよした体つき、おかっぱ頭、…一本調子の高くて水っぽい声」「身のまわりの品の色かたち」など、「正視するさえ耐えない」感情があった。つまり、晶子の性的嗜好は幼児に集中し、小さな男の子には「異常に関心」をはらった。銭湯の帰りに、三つくらいの男の児が、「一きれの赫い西瓜と闘っているところ」を見かけ、奥に「逃げ込んだ種」を「残らず掻きおとして」子供にあてがい、自分も一口食べるという「偏奇な執着」心があった。
 歌劇団のコーラス・ガールを辞めた晶子は30すぎ、イタリア語の翻訳で生計を立てている。2つ若いパートナーの男と同居し、パラノイアの情感や妄執にかられると、「よく不思議な世界の訪れを受け」て衝動買いをした。怪異な幻覚現象が起きるのは、河野の他の作品中にもみられる独自の領域である。それがぼうっと現れ、「女の声」と男親が男の子を折檻するというトラウマの偏執的状況に落ちこむと、晶子は、無意識下に「無謀な快楽」の渦へ沈み込むのだった。
 文芸評論家・川村二郎は、「少年への暴力というなら、『幼児狩り』の中に夢想の形で示されているそれほど、あらわに嗜虐的なものはない」と述べた。奥野健男は「精神分析学的にも興味深い作品」と論じている。今回も、男の子むけの「シャツ・ブラウス」を購買し、後になってからプレゼントの相手を決めるのだ。彼女が同居の佐々木に惹かれたのは学生のときお産の手伝いをしたことが「彼女の好みにかなっ」たからだった。重症の肺結核が癒えてからは、「育児に向かない、母性愛に縁遠い女に」なっていた。
 初期の河野文学の特異性は、主人公に小児性愛の気質を与え、サド・マゾ的パトスに倒錯し、嗜虐的・加虐な性的偏愛の描写にある。例えば、36歳の『堀の中』では、マゾヒズムを臆することなく説く。河野文学の要諦は、実際の世界から遊離した幻想や異次元の物語ではなく、現実の生活に足場をすえ、日常的な環境の上に淡々と描くことにある。
 谷崎文学に親しんできた河野の作風には、谷崎との親和性や強い愛着が認められる。この緊密さゆえに、谷崎の関西言葉や標準語の使い方から切り込んだ長編評論『谷崎文学と肯定の欲望』の分析や、評論『谷崎文学の愉しみ』、編著『いかにして谷崎潤一郎を読むか』が生まれたといえる。『谷崎文学と肯定の欲望』では、『卍』『春琴抄』『痴人の愛』『鍵』の心理を精細・重層的に探索した作家論を説いている。
 56歳のエッセーでも『細雪』を高く称える河野は、「あの小説のもつ醍醐味は」「きわめて毒ある小説」だからだと、いかにも河野らしい修飾を施した。「谷崎潤一郎は、高級なものであろうと、低俗なものであろうと、通俗小説は書かない、…彼にあるのは、高級なる芸術小説と低弱なる芸術小説のみである」という文言には、自身の作家的稟性を追認しているようにも思える。そして、谷崎文学の本質を「反俗意識」による「肯定の欲望と性向の心理的マゾヒズム文学」であると硬質な文章で捕捉する。

『美少女』
 『美少女』は、主人公・省子がかつての恋人を振ったことから起こる陰湿な復讐劇。4年間付き合っていたボーイフレンドの永田が夜半、きれいな女の子を連れてきた。彼に出会ったのは省子が23の時、入所した企業診断・調査をする会社の所員だった。有能な彼は所長に内緒で公認会計士になる勉強をしていた。粗暴ではないが、辛辣な言葉と「強引な身勝手さ」が鼻につく冷たいエゴイスト。独りよがりな態度、なれなれしく女性を横柄に見下す不遜な乱暴さが、「省子を牽きつけてきたのである」。そして「世の常の恋人関係からわざと逸脱することを好むような」普通とはいえない繋がりになった。
 永田の妹たちが夏休みに「3人揃って遊びに来」た時は、省子が「女の子なんぞ大嫌い」と言っていることを承知の上、永田から上手にまるめこまれて中学生と小学生2人の少女たちと2日間付き合うはめになった。ようやく「受難」から解放された省子は、「はじめて本当の自分の声を聞いたような気がした」。「自分がたまらなさを感じたように」、子供たちの心証も、「怖い、意地悪なたまらない女として映ったに違いない」と思いめぐらすのである。
 当時、省子には仕事の関係上知り合ったもう一人の男性・島本がいた。永田との付き合いに躊躇した彼女は、「絵が判らない」まま、絵描きの島本と性急に結婚。それからというもの永田は、「あのペンキ屋さん」と皮肉をこめて揶揄・嘲笑し省子を「苛む」。結婚2年後、夫は病死し、省子は「弱気から来る身勝手さ…むやみに他人の気前を期待するさもしさ、無気力さ」などについてゆけなくなってしまったが、「気の毒な人だった」と同情したりする。自分は「何かと情け無い妻だったのではないだろうか。苦労をさせられ、あの人は感謝しながら死んだけれど」と思い返すのである。
 5年が流れ、偶然、立派になった永田と遭遇。永田が連れてきた妹はまぶしいくらいに美しい女の子であった。が、妹というのはまっかな嘘で、永田はかつて裏切られたことを忘れる人間ではなかった。この美しい女の子と結婚したことを省子にみせびらかし、溜飲を下げると短篇は終わる。

『蟹』
 河野の資質が開花したのは芥川賞を獲得した純文学短篇『蟹』である。選考委員の間では、エキセントリックな著者のサディズムの傾向が話題となったが、丹羽文雄は上質の文学とコメント。船橋聖一は名作にふさわしいとし川端康成や高見順も同調。仕上がりの見事さを褒めたのが井上靖で、候補作の中で群を抜いて完成度が高いと論評された。
 結核療養中の悠子を主人公に、むじゃきな甥っ子と中年女性の触れあいを、母性性を中枢に描いた作品である。「躰の不調が気になりだした」悠子は、同棲している梶井の言葉を無視して温暖な房総の海辺の地へ移った。「そんなある日のこと、…梶井の弟が、妻と幼い息子を連れて、東京から見舞いかたがた遊びにきたのである」。弟夫婦が数日の約束で子供・武をおいて帰っていった。
 悠子は武を異常に可愛がる。梶井から1か月という念押しをされて「ここへ来たことは、本当によかった。まるで天国だ、と悠子は思う」のであった。触れあいの間に溺愛の情感が昂まり、気をひくために、波打ち際にはいない蟹探しに子供をともなって熱中する。寝るときには、甥っ子の願いで背中を掻いてあげるので彼女になついてくる。そして二人だけの秘密めいた約束をかわしたりし、蟹を中において互いの距離を縮めながら、彼女のパラノイアの表徴が浮きでるという鮮やかな筆さばきの名作である。
 河野の創作上の表現は、大阪商人の老舗が出自と信じられないほど。関西弁が入らないのに粘着力のある文体には、生粋の大阪人、山崎豊子や田辺聖子、富岡多恵子ら関西弁を多用する女性作家とは明らかに違う。明確な精神力、なによりもテーマやモチーフに対する感覚と己を貫きとおす粘り強さがあり、ユーモアや軽妙な笑い、男女のロマンチックな触れあい、甘い会話などは想像すらできない。愛不在の男と女の冷ややかな関係、軋轢・不和・不仲・確執が底流する。川村二郎によれば、「重く、硬く、粘り強く、あくまでも正攻法で真向から迫ってくる」、真剣で「偏執的なこだわり」をもつ文章ということになる。
 文学活動の初期には、女性の微妙な心理の襞を多角的に表現している。『幼児狩り』『蟹』『劇場』『明くる日』『最後の時』の小説群は、女性ならではの視点で、子供や夫婦を観察し、深化させるという技量を武器に、41歳の『最後の時』で女流文学賞を受賞。『骨の肉』は英訳された。

生きる幸せを文学に
 43歳の『不意の声』は、妄想にとりつかれたホラー的な長編小説である。ごく普通の家庭で育った吁希子は少女時代、「母には親しみを覚えた」が、「二十になる頃までは父に叱られた記憶」がないものの、母以上に父が「怖かった」。父が亡くなったのが7年前。戦争で婚期の遅れた彼女が、東京で馗一と同棲生活をしていた夜、「チチキトク スグカエレ」の電報が届いた。
 父の死後、吁希子は、「優しい眼つきで見をろしている」「父の立姿が宙に架っている」幻を見るようになった。「同じ屋根の下で暮らしている」馗一との夫婦仲は冷え、崩壊してゆく。酒癖が悪い夫は短気で物を投げつける。喧嘩の末とげとげしい言葉で「出て行け!」と怒鳴りちらす。彼女は「屈辱感と劣等感」で離婚を考えるまでに心が荒んでゆく。そうした時に、父の「不意の声」が聞こえると、「彼女が請う時には必ず、そして…自分のほうからも訪れてくれる亡父と、不思議な、親しい対面をする」。微笑をしながらやさしく包み込んでくれる亡父の声に「やってみるがいい。大丈夫だとも、三人までは…」と誘導され、いつしか人を殺したいという情念がふつふつと起こる。夫婦の亀裂から、河野の特徴でもある現実と肥大化する空想・幻想をめぐらす女心を描いた本作は、讀賣文学賞を獲得。
 さらに『回転扉』『血と貝殻』を創作し、女性の感覚で一対の夫婦関係を他者や夫として扱い、河野文学の全体像が顕れてくる。昭和54年、谷崎潤一郎賞を得たのは『一年の牧歌』で、稀な結核病に罹った独身女性の心の屈折を妖しくも知的・爽やかに描いた長編小説。
 『幼児狩り』以降、河野文学に対する批評が平林たい子、佐伯彰一、蓮實重彦らから出始め、特に女性研究者たちは海外の女性研究家も交えジェンダーやフェミニズムの角度から河野論をくり広げた。
 65歳になった平成3年、純文学書き下ろし長編『みいら採り猟奇譚』を発刊。激化する戦時下、結婚した医師夫婦を主人公に、平凡な男女の愛と人生が、やがて特殊な緊迫感を帯びてゆく作品は、野間文芸賞受賞。
 平成9年発刊の『後日の話』は伊藤整文学賞、毎日芸術賞のダブル受賞。さらに78歳の平成12年に『半所有者』で川端康成文学賞を獲得。翻訳としては『骨の肉』に次いで『幼児狩り』『みいら採り猟奇譚』『不意の声』などがフランス語、ドイツ語に訳されている。
 女性ならではの目線で創作してきた河野の関心は、夫婦の形にこだわらない男女の性愛や心理的繋がり・拮抗に光をあて、新しい地平を拓いた。地味だが誠実な人生で、生きている幸せを文学に託し、生涯、独自の世界を発信し続けた。
 56歳から朝日新聞の文芸時評を担当。平林たい子賞、女流文学賞、読売文学賞の選考委員。大庭みな子と共に女性作家として初めて芥川賞選考委員に選ばれると19年間務めあげた。平成元年、芸術院会員に選ばれ、文化勲章を受章した1年後の平成27年、88歳で永眠。
(2024年10月10日付 816号)